月別の広布史-July

7月の広布史

記念日 意義
7月3日 【7.3は弟子の日】戸田先生が出獄され、池田先生が入獄された日です。 昭和20年(1945年)7月3日午後7時、戸田先生(出獄時:当時45歳)が豊多刑務所を出獄。敗戦の焼け野原に一人立たれた日。牧口先生は国家権力の手によって前年の昭和19年(1944年)11月18日に獄死。戦前3000名の会員を擁した創価教育学会は壊滅状態だった。戦前幹部たちは、牧口先生を罵るありさまだった。 【巌窟王】戸田先生は牧口先生の仇を討つべく、反転攻勢ののろしを上げる。 【75万世帯の願業】出後からわずか13年後に戸田第 は逝去。 75万世帯の願を果たされ、一人の後継者をつくられた。 【大阪事件】昭和32年(1957年)7月3日大阪事件。 大阪で行われた参議院補欠選挙で、学会の勢力を恐れた権力者は、支援の責任者であった無実の池田名誉会長(当時:室長)を逮捕、拘留した。 【師の心】戸田城聖先生の心 死んではならんぞ、大作、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶせして一緒に死ぬからな。 【入出獄に師弟あり】池田大作先生無実の罪で逮捕される。 若き日の池田名誉会長(青年室長)が大阪府警に不当逮捕された日は、くしくも、その12年後のかつて戸田会長が豊多刑務所を出獄された「7.3/午後7:00」と同じ日時でした。
7月6日 【凱歌】牧口先生・戸田先生が逮捕された日。 昭和18年7月6日(1943年)、全同志の祈りと団結で勝ち開いた「立正安国」の凱歌こそ、牧口先生と戸田先生への何よりの報恩である。【学会精神】両先生が、戦時中の法難で、軍部政府に逮捕された日である。74星霜を刻んだこの日、私は総本部の恩師記念会館で、殉難の師父の「不惜身命」「死身弘法」の崇高なる精神を偲び、勤行・唱題をおこなった。※2017年7月7日聖教新聞
7月8日 【女子部白蓮グループ記念日】白蓮グループの日 昭和41年(1966年)7月のこと池田SGI会長は、自発と率先の心で献身する友をたたえて「白蓮グループと命名しました。これが同聖教新聞紙上で発表され、後に「7.8」が「白蓮グループの日」となったのです。白蓮グループの淵源は、昭和32年5月(1957年)、当時、青年部の室長であった池田SGI会長が提案して発足した女子部の「整理班」にあります。諸行事の整理・運営などを任務としており、これが後に「白蓮グループ」となりました。
7月11日 7月19日 7月11日男子部結成記念日 7月19日女子部部結成記念日 正義の君よ 一人立て 青年よ、師子となれ! 堂々たる勝利の歴史を飾りゆけ!昭和26年(1951年)7月11日、東京・西神田の旧学会本部で行われた結成式には、約180人の精鋭が集った。意気軒昂な若々しき決意発表に続いて、最後に戸田先生が指導に立たれた。それは、皆の全く予想もしない第一声であった。「きょう、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや、次の創価学会会長が現れるであろう」  そして、その方に最敬礼申し上げたいと、深々と、頭を下げられたのであった。  峻厳な空気が部屋いっぱいに流れた。あまりにも不思議な音声に、皆の心が天まで上がった。  その師の声を、私は会場の一角で、若き生命に刻みつけていた。それは、大難を勝ち越えた師と弟子との2人の儀式であったからだ。  男子部の誕生という意義は、それ自体が、「第2代」から「第3代」への厳粛なる授記の儀式でもあったのである。  先生は真剣に「広宣流布は、私の絶対にやり遂げねばならぬ使命であり、各自に、その尊い地位を自覚してもらいたい」と仰せになった。  師の心を心として、「広宣流布」を断固として完遂することが、使命深き男子部一人ひとりの誓願であると、全生命に響きわたった。(随筆 人間世紀の光 117より抜粋)    この言葉を参加者の一人として命で受け止めたのが、当時23歳の池田名誉会長である。ただ一人、恩師の事業の逆境を支え、“戸田第2代会長誕生”の道を開いた。そして、師が会長就任式で掲げた願業の75万世帯達成に向け、誰よりも真剣に弘教拡大に先駆していった。  男子部結成の年の初頭、戸田会長が名誉会長に手渡した一書が『永遠の都』であった。“一人の本物の弟子がいれば、広宣流布はできる”との期待を込めて。  師の心のままに、広布達成のロマンを共有する同志の連帯を築き、社会に仏法の正義を広げた名誉会長により、学会の人間主義のスクラムは、世界192カ国・地域に拡大したのである。  男子部は結成以来、師の心をわが心として受け継ぐ青年が一人立ち上がり、その一人に続いて、「二人・三人・百人と」(御書1360ページ)、青年が立ち上がり、勢いを増して前進してきた。  今、“池田門下の精鋭”である男子部の魂もまた、一人立つ精神にある。  池田名誉会長は青年にこう呼びかけている。「鉄は炎の中で鍛えられてこそ、鋼となる。見事な剣となる。人間も同じであろう。人生は、苦労したほうが勝ちだ。悔しい思いを乗り越えた青年が、最後は勝利する」  名誉会長自身、青年時代、事業の破たんに見舞われた恩師・戸田第2代会長を、ただ一人、身をなげうって支え抜いた。当時のことに触れ、名誉会長は「あの時の闘争があるからこそ、今日の学会の発展がある」と述懐している。  青春の「勝利の要因」は何だったのか――。名誉会長は断言している。  「ひと言で言うならば、いついかなる時も、わが心が師と共にあったことだ」  何があっても退かない。断じて負けない――これが、師弟に脈打つ不撓不屈の精神だ。
7月16日 【立正安国論提出】 立正安国論は、大聖人が文応元年(1260年)7月16日、39歳のとき、時の実質的な最高権力・北条時頼にあてた「国家諌暁の書」提出する。
7月17日 【炎の大阪大会】民衆勝利の日 当逮捕から2週間後の7月17日――。名誉会長(室長)は大阪拘置所を出所。その日の夕刻、中之島の大阪市中央公会堂で歴史的な「大阪大会」が開かれました。天の怒りのような凄まじい雷鳴が響き渡る中、名誉会長(室長)は火をはくように叫びました。「最後は、信心しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!」この日、名誉会長(室長)に「戦いはこれからだよ。御本尊様は、すべてわかっていらっしゃる。勝負は裁判だ。裁判長はかならずわかるはずだ」と語った戸田会長。名誉会長(青年室長)は裁判で真実を証明することを深く決意し、84回に及ぶ法廷闘争を戦い抜きました。師の言葉通り、晴れて無罪判決を勝ち取ったのは、それから4年半後の1962(昭和37)年1月25日のことです。この判決によって、学会の正義が満天下に示され、事件は学会の大勝利で終わったのです。 4日後の、1月29日には、名誉会長はイラン、イラクなど中東に向けて出発されました。2月8日、エジプトの地の名誉会長に1通の電報が届きます。新・人間革命第6巻「遠路の章」には、このように記されています。「夕方、ホテルに戻ると、日本から山本伸一あてに電報が届いていた。 ローマ字で打たれた「KOUSO NASI(控訴なし)」の文字が目に飛び込んできた。1月25日、大阪事件の第1審の大阪地裁の判決で、伸一は無罪となったが、検察が控訴することが懸念されていたのだ。しかし、判決後14日間の控訴期間内に、検察は、控訴の手続きを取らなかったのである。これで大阪地裁の判決が最終の審判となったのである。 「先生!無罪は、最終的に確定しました。これで、先生の命であった創価学会に、傷をつけずにすみました。なんの憂いもなく、後継の若獅子として、世界平和の大舞台に乱舞することができます。」1月25日が「民衆勝利の日」であるなら、2月8日は「民衆完全勝利の日」「関西完勝の日」だと思います。