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『生死一大事血脈抄講義』 の冒頭のところで、池田先生は 「生死」 について、世間の間違った考え方である 「断見」 と 「常見」 について述べられています。
「断見」 とは、死ねば心身ともに無に帰するするとして、生命は生で始まり死で終わり、今世だけのものとする考えに執着する誤った見解のことである。
「常見」 とは、死んでも不滅の霊魂が続くといい、今ここにあるものは常住不変であると執着する誤った見解のことで、犬はいつも犬、人はまた人となって生まれると説いて、因果を否定する生命観である。
池田先生は、断常の二見について、次のように指導されています。
これらは、「生まれたあとの自分」 を前提とした生死観、すなわち、今生きている自分の生死だけしか見ない考え方であり、また、死と生を対立するものとして捉(とら)えるにとどまり、生死をありのままに見た智慧とは言えません。
自分の死を意識せざるをえない人間は、誰であれ、この二つの考えを何らかの形で持っているとも言えるでしょう。「断見」 は死への恐れや不安をもたらし、「常見」 はわが身を惜しむ生き方の一つの帰結です。…… (同抄講義・9P)
「生まれてきたあとの自分」 を前提とする生死の考え方は、どうしても死後に今の自分が無くなるのか、続くのか、という 「議論」 になりがちなのです。これは、自分の死を鋭く意識しながら、自分自身では死や死後を経験できない人間にとって仕方のないことなのかもしれません。しかし、どう議論しても、最高の智慧とは言えないのです。
なぜならば、死ねば無に帰するという断見では、死への恐怖や死に縛られた不安から永久に解放されません。
他方、自分の霊魂は不滅であるという常見は、往々にして 「今の自分がそのままで不滅でありたい」 という安易な欲望の表現に過ぎないことが多い。結果的に、自分を高める智慧にはならず、かえって今の自分への執着を増し、迷いを深めるだけに終わりやすい。
もちろん、東西の多くの宗教や思想では、今の自分を超える何らかの精神的なものの不滅を唱えています。そのような思想は、死について何らかの安心感を与える効果はあるでしょう。しかし、生き方を高める最高の智慧に行き着かなければ、先ほど述べた、自己執着の迷いと老苦・死苦に縛られた生き方に堕しやすいのです。 (同抄講義・11P)
日蓮大聖人は、『十法界事』 に 「又或る時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む是の故に自ら念(おも) わく三惑を断尽して変易(へんにゃく) の生を離れ寂光に生るべしと、然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す、九界の色心の常住を滅すと欲(おも) うは豈(あ) に九法界に迷惑するに非ずや」(418P) と仰せです。
「九界を滅すれば是れ則ち断見なり」 とは、念仏などの権大乗教では業・煩悩(貧・瞋・癡・慢・疑) 等によって、穢れた汚い心身を断じ尽くして、その後に涅槃の境地を得ようとするものです。
このことを 『一代聖教大意』 に、「法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す」(403P) と述べられています。述べられています。
権大乗教では、十界互具を説かないので 「厭離断九の仏」 となるのである。ここで、常住の九界の色心を厭い離れようとする点が 「断見」 である。
「仏界に昇れば即ち常見と為す」 とは、法華経の十界本有常住論から言えば、仏界も九界も共に衆生の身心に常住しているのである。しかるに権大乗では、九界を滅し、仏界のみを常住と見ていく見解は 「常見」 である。
『御義口伝』 に、「経に四導師有りとは今四徳を表す上行は我を表し無辺行は常を表し浄行は浄を表し安立行は楽を表す、有る時には一人に此の四義を具す二死の表に出づるを上行と名け断常の際(きわ) を踰(こ) ゆるを無辺行と称し五住の垢累(くるい) を超ゆる故に浄行と名け道樹にして徳円かなり故に安立行と曰(い)うなり」(751P) と仰せです。
“南無妙法蓮華経” と唱えることによって、「常楽我浄」 の四菩薩の徳用を表すことが出来るのである。「断常の際を踰ゆるを無辺行と称し」 と仰せのように、断見、常見等の邪見の生命観を超えて、永遠の生命観を会得したとき、一切の行き詰まりはことごとく打ち破られ、広々とした自由無礙なる心境に生きることが出来るのである。これが断常の邪見を超えることが出来る、“無辺行菩薩” の徳用である。
池田先生は、「死苦からの解放がなければ、真の幸福はありません。そして、死苦からの解放は、観念ではなしえない。生と死が宇宙そのものの永遠にして大なるリズムであり、そのリズムを生きる大いなる自分自身を発見し、それをわが生命を支える根源的躍動として実感しえたときに、死苦を乗り越えることができるのです。その生命解放の道こそが、自行化他にわたる南無妙法蓮華経です」 (同抄講義・12P) と指導されています。
随創価教学想
『生死一大事血脈抄講義』 の冒頭のところで、池田先生は 「生死」 について、世間の間違った考え方である 「断見」 と 「常見」 について述べられています。
「断見」 とは、死ねば心身ともに無に帰するするとして、生命は生で始まり死で終わり、今世だけのものとする考えに執着する誤った見解のことである。
「常見」 とは、死んでも不滅の霊魂が続くといい、今ここにあるものは常住不変であると執着する誤った見解のことで、犬はいつも犬、人はまた人となって生まれると説いて、因果を否定する生命観である。
池田先生は、断常の二見について、次のように指導されています。
これらは、「生まれたあとの自分」 を前提とした生死観、すなわち、今生きている自分の生死だけしか見ない考え方であり、また、死と生を対立するものとして捉(とら)えるにとどまり、生死をありのままに見た智慧とは言えません。
自分の死を意識せざるをえない人間は、誰であれ、この二つの考えを何らかの形で持っているとも言えるでしょう。「断見」 は死への恐れや不安をもたらし、「常見」 はわが身を惜しむ生き方の一つの帰結です。…… (同抄講義・9P)
「生まれてきたあとの自分」 を前提とする生死の考え方は、どうしても死後に今の自分が無くなるのか、続くのか、という 「議論」 になりがちなのです。これは、自分の死を鋭く意識しながら、自分自身では死や死後を経験できない人間にとって仕方のないことなのかもしれません。しかし、どう議論しても、最高の智慧とは言えないのです。
なぜならば、死ねば無に帰するという断見では、死への恐怖や死に縛られた不安から永久に解放されません。
他方、自分の霊魂は不滅であるという常見は、往々にして 「今の自分がそのままで不滅でありたい」 という安易な欲望の表現に過ぎないことが多い。結果的に、自分を高める智慧にはならず、かえって今の自分への執着を増し、迷いを深めるだけに終わりやすい。
もちろん、東西の多くの宗教や思想では、今の自分を超える何らかの精神的なものの不滅を唱えています。そのような思想は、死について何らかの安心感を与える効果はあるでしょう。しかし、生き方を高める最高の智慧に行き着かなければ、先ほど述べた、自己執着の迷いと老苦・死苦に縛られた生き方に堕しやすいのです。 (同抄講義・11P)
日蓮大聖人は、『十法界事』 に 「又或る時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む是の故に自ら念(おも) わく三惑を断尽して変易(へんにゃく) の生を離れ寂光に生るべしと、然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す、九界の色心の常住を滅すと欲(おも) うは豈(あ) に九法界に迷惑するに非ずや」(418P) と仰せです。
「九界を滅すれば是れ則ち断見なり」 とは、念仏などの権大乗教では業・煩悩(貧・瞋・癡・慢・疑) 等によって、穢れた汚い心身を断じ尽くして、その後に涅槃の境地を得ようとするものです。
このことを 『一代聖教大意』 に、「法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す」(403P) と述べられています。述べられています。
権大乗教では、十界互具を説かないので 「厭離断九の仏」 となるのである。ここで、常住の九界の色心を厭い離れようとする点が 「断見」 である。
「仏界に昇れば即ち常見と為す」 とは、法華経の十界本有常住論から言えば、仏界も九界も共に衆生の身心に常住しているのである。しかるに権大乗では、九界を滅し、仏界のみを常住と見ていく見解は 「常見」 である。
『御義口伝』 に、「経に四導師有りとは今四徳を表す上行は我を表し無辺行は常を表し浄行は浄を表し安立行は楽を表す、有る時には一人に此の四義を具す二死の表に出づるを上行と名け断常の際(きわ) を踰(こ) ゆるを無辺行と称し五住の垢累(くるい) を超ゆる故に浄行と名け道樹にして徳円かなり故に安立行と曰(い)うなり」(751P) と仰せです。
“南無妙法蓮華経” と唱えることによって、「常楽我浄」 の四菩薩の徳用を表すことが出来るのである。「断常の際を踰ゆるを無辺行と称し」 と仰せのように、断見、常見等の邪見の生命観を超えて、永遠の生命観を会得したとき、一切の行き詰まりはことごとく打ち破られ、広々とした自由無礙なる心境に生きることが出来るのである。これが断常の邪見を超えることが出来る、“無辺行菩薩” の徳用である。
池田先生は、「死苦からの解放がなければ、真の幸福はありません。そして、死苦からの解放は、観念ではなしえない。生と死が宇宙そのものの永遠にして大なるリズムであり、そのリズムを生きる大いなる自分自身を発見し、それをわが生命を支える根源的躍動として実感しえたときに、死苦を乗り越えることができるのです。その生命解放の道こそが、自行化他にわたる南無妙法蓮華経です」 (同抄講義・12P) と指導されています。
随創価教学想