広宣流布のための「御本尊」
背景と大意
「観心本尊抄」は、文永10年(1273年)4月25日、日蓮大聖人が52歳の時、流罪の佐渡・
本抄では、まず、御本尊を受持し、南無妙法蓮華経の唱題に励むことが、末法における成仏の修行であるという「受持即観心」の法門が明かさます。(第1章~16章)。
続いて、末法の衆生が成仏のための信受すべき本尊について述べられ、その本尊は本門の肝心である南無妙法蓮華経であり、地涌の菩薩によって弘められることが明かされます(第17章~30章)。
最後に、成仏の根本法である一念三千を知らない末法の衆生に対しいて、仏が大慈悲を起こし、一念三千を珠を包んだ妙法五字を授与されることを述べて、本抄を結ばれます。(第31章)
<要文・解説>
大段第一
一念三千の典拠を示す
第1章~2章
※天台大師の『摩訶止観』第5巻の「一念三千」を説いた文を掲げられ、前の4巻まえには明かされていないことを確認される。
通解
摩訶止観第五にいわく世間と如是と一で開合の異いがある。夫れ一心に十法界を具し、一法界に又十法界を具すれば百法界である。この百法界の一界に三十種の世間を具すれば即ち一心に三千種の世間を具すことになる。この三千世間は一念の心にあり、もし心がなければ三千を具すことがない。介爾ばかりの心でもあれば即ち三千を具すのである。乃至所以に不可思議境と称し、意は此にあるのである」とある。或本には一界に 三種の世間を具すとある。
一心:生命論に約して瞬間の生命であり、信心に約せば信心の一心であり、大御本尊に約せば自受用身の一念の心法、すなわち大御本尊の中央の南無妙法蓮華経である。一心の一には唯一・無二・平等・絶対・普遍妥当の意味がある。
十法界:十界のこと。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界をいう。うちゅうの森羅万象の境界を十種に立て分けたので十法界という。
三十種の世間:如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等の十如是それぞれに衆生世間・五陰世間・国土世間がそなわり「三十種の世間」となる。世間とは差別の意。
而已:停止する。中止する。途絶える。
介爾:ほんのわずかばかりの意。芥爾と同じ。
不可思議境:「不可思議」は思議すべからずの意で、あると思えばなく、ないと思えばある。我々の生命がまさしく不可思議である。「境」とは客観のことで、生命を客観的に見れば不可思議境でり、十界・十如・三千世間をととのえられた日蓮大聖人の御生命・ご本尊を不可思議境・妙境としている。
第3章~4章
◇
一念三千の法門は前代未聞の教えであり、華厳宗や真言宗は、その法門が優れていることを知った元祖が自宗に盗み入れたと指摘される。さらに、草木や国土など感情や意識がないと思われる「非情」をも成仏させる法理であると示される。
大段第二(1)
観心を明かす
第5章
「観心」の意義を明かされる。
第6章
法華経の文から九界所具の仏界所具の九界を示し、さらに地獄界から仏界までの十界互具を明かした文証を挙げられる。
第7章
自他の生命に十界を見ることは「難信難解」であり、簡単に信じられるようなら、仏の覚りの真実を説いた正法ではないと仰せになる。
第8章
人界に六道が具わることを、人の顔に瞬間瞬間の心の変化が現れることから推察して信じるように促される。
第9章
世間の無常は眼前に有り
◇
末代の
人界に三乗が具わる一端を示す事例を挙げ、信じるように促される。
第10章
十界互具之を立つ「るは
◇
人界所具の仏界は「現証」を見て信じるように促され、三つの実例を挙げられる。
第11~12章
偉大な因行・果徳を具えた釈尊が私たち凡夫の心に具わるとはとても信じられないという教主に関する問いと、法華経に比べて、仏界と九界が断絶している爾前経のほうが真実と思われる等の経典・論書に関する問いをたてられる。
第13~15章
◇
一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり(同246ページー8行目~9行目)
経典・論書に関する難問に答えられた後、再度、法華経の「難信難解」を示されつつ、教主・釈尊に関する論難について、成仏の根本因は「仏種」であり、仏種である妙法は法華経にのみ説き顕されていると答えられる。
第16章
◇
釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり其の跡を継承して其の功徳を
◇我等が己心の釈尊は
◇
私たち末法の凡夫は、「妙法蓮華経の五字」を受持することによって、凡夫を改めることなく、そのままの姿で仏の因果の功徳を譲り受けることができるという「受持即観心」法門を明かされる。
経典・論書に関する難問に答えられた後、再度、法華経の「難信難解」を示されつつ、教主・釈尊に関する論難について、成仏の根本因は「仏種」であり、仏種である妙法は法華経にのみ説き顕されていると答えられる。
大段第二(2)
本尊を明かす
第17~18章
爾前経・法華経迹門で説かれた
第19章
此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に
其の本尊の
末法の衆生のため法華経本門文底下種の本尊とは、本門の肝心たる「南無妙法蓮華経の五字」であると明かされる。そして、その本尊の様相を詳しく示され、釈迦牟尼仏と多宝仏を脇士とする偉大な本尊は、釈尊在世はもとより、正法・像法時代にもなかったと仰せになられる。
第20~23章
前代未聞の本尊について詳しく教えてほしいとの問いを立てられ、「五重三段」のうち、一代一経三段、法華十巻三段、
第24章
文底下種三段を明かし、「三世十方の諸仏が説いた無数の経典」は序文であり、「寿量」(内証の寿量品)、「
第25章
在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は
法華経の迹門・本門とも末法のために説かれたことが示され、末法の衆生のために説かれたことが示され、末法に流通すべき法は寿量文底の下種益の妙法たる題目の五字(南無妙法蓮華経)であると明かされる。「釈尊の一代聖教および三世十方の諸仏が説く無数の経典」は、南無妙法蓮華経を弘めるために用いられるので文底下種三段の流通分であることを示される。
第26章
法華経の本門が序・正・流通ともに末法の衆生のために説かれたことの文証を挙げ、末法における地涌の菩薩の弘教を明かされる。最初に、法華経本門序文の涌出品で釈尊が迹化・他方の菩薩の、弘教の誓いを制止したのは、地涌の菩薩に滅後の弘教を託すためであったと明かされる。
第27章
今の
法華経本門正宗分の
第28章
法華経本門流通分の神力品で、釈尊が10種類の神力を現したのは地涌の菩薩に滅後の弘教を付属するためであったと明かされる。
第29章
巳前の妙鏡を以て仏意を
此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ(同253ページ16行目)
◇
当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責
し摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す(同254ページ1~2行目)
地涌の菩薩は末法に出現すること、そして大聖人御自身が地涌の菩薩であることを明かされる。
第30章
此の時
◇
天晴れぬれば地明らかなり法華を識る者は世法を得可きか(同254ページ16~17行目)
地涌の菩薩が必ず末法に出現するとの仏の未来記を挙げ、大聖人がその未来記にあたると結論されていく。
大段第三
総結
第31章
一念三千を
結論として、末法の衆生は、妙法蓮華経の五字すなわち御本尊を受持することによって必ず守られて成仏できるとの御本尊の大功力を示される。
本文
観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向かう時始めて自具の六根を見るが如し、諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。
現代語訳
観心とは自分自身の心を見つめて、そこに十界を見ること、これを観心というのである。
譬えば、他人の六根(目・耳・鼻などの知覚・認識器官)を見ても、自分の六根を見ないなら、自分自身に具わっている六根は分からない。明鏡に向かった時、はじめて自身の六根を見る。諸経の中で随所に六道や四聖について触れているけれども、法華経や、天台大師が述べた『摩訶止観』などの明鏡を見なければ、自分自身に 具わっている十界・百界千如・一念三千をしることはないのである。(240ページ1行目~4行目)