新・人間革命 第30巻<下>

小説「新・人間革命」に学ぶ

今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第30巻<下>の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。

第30巻<下>

<基礎資料編>

【物語の時期】1981年(昭和56年)6月16日~2001年(平成13年)11月12日

「暁鐘」の章(後半)

1981年(昭和56年)6月16日、山本伸一の平和旅は、フランスからアメリカへ。ニューヨーク会館やホイットマンの生家などを訪問。20日の日米親善交会では、伸一がつくった詩「我が愛するアメリカの地涌の若人に贈る」が発表される。21日、カナダのトロントへ。翌日のカナダ広布20周年記念総会では、一人立つことの大切さを訴える。滞在中、文化交歓会に臨み、トロント会館等を訪問。再びアメリカへ。28日にはシカゴで盛大に開催された第1回世界平和文化祭に出席。また7月1日、世界芸術文化アカデミーは、伸一に「桂冠詩人」の称号授与を決定する。伸一は8日に帰国。間断なき激闘によって、世界広布の新章節の旭日が昇り始め、“凱歌の時代”の暁鐘は、高らかに鳴り渡った。

<基礎資料編>

「勝ち鬨」の章

山本伸一は7月、結成30周年記念の青年部総会に祝電を送るなど、新時代を担う青年の育成に力を注ぐ。18日、会長の十条潔が急逝し、第5代会長に秋月英介が就任する。11月、伸一は四国を訪れ、10日の「香川の日」記念幹部会で「もう一度、指揮を執らせていただきます!」と宣言。本格的な反転攻勢が開始される。また、四国男子部の要請を受け、二十数回にわたって新愛唱歌に筆を入れる。14日、男子部の「紅の歌」が完成する。12月8日、大分指導を開始。宗門事件の震源地・別府を訪れたあと、大分平和会館へ。10日、伸一は、夜の県青年部幹部会で詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」を発表するために全精魂を注いで口述。直前まで推敲を重ね、21世紀への新たな指針が、大分の地から全国に発信される。伸一は12日、宗門事件で苦しんできた大分県竹田へ。岡城の本丸跡に集った友と写真撮影し、「荒城の月」を大合唱する。その後、熊本に移り、阿蘇の白菊講堂を初訪問。15日、熊本文化会館での自由勤行会に参加した友と、会館近くの公園で記念撮影し、「田原坂」を高らかに合唱する。1982年(昭和57年)1月10日には、宗門から激しい迫害を受けてきた秋田へ。伸一は秋田でも自由勤行会を開催する。雪の降りしきる中、秋田文化会館前の公園に記念撮影のために集った同志と共に、「人間革命の歌」を熱唱。民衆勝利の宣言ともいうべき「勝ち鬨」が轟く。

<名場面編>

<1982年(昭和57年)1月、山本伸一は、秋田へ。13日、秋田文化会館前の公園で雪の中、記念撮影に臨む。この数年、同志は宗門からの迫害にじっと耐えてきた>

雪空に轟く民衆勝利の凱歌

悪僧たちは、葬儀の出席と引き換えに脱会を迫るというのが常套手段であった。また、信心をしていない親戚縁者も参列している葬儀で、延々と学会への悪口、中傷を繰り返してきた。揚げ句の果ては、「故人は成仏していない!」と非道な言葉を浴びせもした。人間とは思えぬ、冷酷無残な、卑劣な所業であった。

そうした圧迫に耐え、はねのけて、今、伸一と共に二十一世紀への旅立ちを迎える宝友の胸には、「遂に春が来た!」との喜びが、ふつふつと込み上げてくるのである。伸一が、白いアノラックに身を包んで、雪の中に姿を現した。気温は氷点下二・二度である。集った約千五百人の同志から大歓声があがり、拍手が広がった。

彼は、準備されていた演台に上がり、マイクを手にした。

「雪のなか、大変にお疲れさまです!」

「大丈夫です!」――元気な声が返る。

「この力強い、はつらつとした皆さんの姿こそ、あの『人間革命の歌』にある『吹雪に胸はり いざや征け』の心意気そのものです。

今日は、秋田の大勝利の宣言として、この『人間革命の歌』を大合唱しましょう!」

(中略)

〽君も立て 我も立つ

広布の天地に 一人立て……

伸一も共に歌った。皆の心に闘魂が燃え盛った。創価の師弟の誇らかな凱歌であった。

伸一は、秋田の同志の敢闘に対して、さらに提案した。

 「皆さんの健闘と、大勝利を祝い、勝ち鬨をあげましょう!」

 「オー!」という声が沸き起こった。

 そして、民衆勝利の大宣言ともいうべき勝ち鬨が、雪の天地に轟いた。

 「エイ・エイ・オー、…………」

 皆、力を込めて右腕を突き上げ、声を張り上げ、体中で勝利を表現した。

降りしきる雪は、さながら、白い花の舞であり、諸天の祝福を思わせた。(「勝ち鬨」の章、187~190ページ)

<基礎資料編>

「誓願」の章

4月21日午後、山本伸一は、第5次訪中を果たす。29日、中国から九州の長崎に向かい、同志の輪の中へ。反転攻勢の助走を開始し、広布の空へ「雄飛」していく。30日には福岡に移り、5月3日を関西で迎える。さらに中部、静岡も訪問し、何度となく勤行会を行う。長崎到着以来、計15万人を超える同志の激励となった。7月には、聖教新聞紙上で「忘れ得ぬ同志」の連載を開始。8月には休載中の小説『人間革命』の連載を再開する。9月末、伸一は、北米指導に出発。ハワイ、サンフランシスコ、ワシントンDC、シカゴと、激励に奔走。10月17日、ロサンゼルスで「第1回SGI総会」に出席する。1981年(昭和56年)1月、北・中米指導に赴く。2月19日にはパナマ、26日にはメキシコを歴訪。さらに5月、ソ連、欧州、北米訪問へ。この頃、ソ連はアフガニスタン侵攻によって、国際的に厳しい状況にあった。伸一は、そんな時だからこそ、文化・教育交流に最大の力を注ごうと、チーホノフ首相との会見をはじめ、文化人と語らいを重ね、次の訪問地である欧州へ向かう。

<名場面編>

<90年(平成2年)7月、山本伸一は第5次訪ソを果たし、クレムリンでゴルバチョフ大統領と初の会談を行う。世界の平和を願う2人の心は強く響き合い、日ソ関係に、新しい交流の光が差した>

響き合う人間主義の心と心

伸一は、ユーモアを込めて語りかけた。「お会いできて嬉しいです。今日は大統領と“けんか”をしにきました。火花を散らしながら、なんでも率直に語り合いましょう。人類のため、日ソのために!」伸一の言葉に、ゴルバチョフ大統領もユーモアで返した。「会長のご活動は、よく存じ上げていますが、こんなに“情熱的”な方だとは知りませんでした。私も率直な対話が好きです。会長とは、昔からの友人同士のような気がします。以前から、よく知っている同士が、今日、やっと直接会って、初めての出会いを喜び合っている――そういう気持ちです」伸一は、大きく頷きながら応えた。「同感です。ただ大統領は世界が注目する指導者です。人類の平和を根本的に考えておられる信念の政治家であり、魅力と誠実、みずみずしい情熱と知性をあわせもったリーダーです。私は、民間人の立場です。そこで今日は、大統領のメッセージを待っている世界の人びとのため、また後世のために、私が“生徒”になって、いろいろお聞かせ願いたい」大統領は、あの“ゴルビー・スマイル”を浮かべて語った。「お客様への歓迎の言葉を申し上げる前に先を越されてしまいました。“生徒”なんてとんでもないことです。会長は、ヒューマニズムの価値観と理想を高く掲げて、人類に大きな貢献をしておられる。私は深い敬意をいだいております。会長の理念は、私にとって、大変に親密なものです。会長の哲学的側面に深い関心を寄せています。ペレストロイカ(改革)の『新思考』も、会長の哲学の樹の一つの枝のようなものです」伸一は(中略)語った。「私もペレストロイカと新思考の支持者です。私の考えと多大な共通性があります。また、あるのが当然なんです。私も大統領も、ともに『人間』を見つめているからです。人間は人間です。共通なんです」(「誓願」の章、254~256ページ)

<名場面編>

<山本伸一は、21世紀を目指し、世界平和の道を開くために、力の限り奔走。93年(平成5年)1月下旬から、北・南米を訪問し、対話の輪を広げていった>

今が人生の最も重要な瞬間

創価大学ロサンゼルス分校では、“人権の母”ローザ・パークスと会談した。

――一九五五年(昭和三十年)、アフリカ系アメリカ人の彼女は、バスの座席まで差別されることに毅然と抗議した。それが、バス・ボイコット運動の起点となり、差別撤廃が勝ち取られていったのである。伸一は青年たちと、その人権闘争を讃え、「“人類の宝”“世界の母”ようこそ!」と歓迎した。まもなく迎える彼女の八十歳の誕生日を、峯子が用意したケーキでお祝いもした。人間愛の心と心が響き合う語らいのなかで、彼女は、『写真は語る』という本が出版されることに触れた。著名人が、人生に最も影響を与えた写真を一枚ずつ選んで、載せる企画であり、自分が、その一人に選ばれたことを伝え、こう語った。「あのバス・ボイコット運動の際の写真を選ぼうと思っていました。しかし、考えを変えました。会長との出会いこそ、私の人生にいちばん大きい影響を及ぼす出来事になるだろうと思ったからです。世界平和のために、会長と共に旅立ちたいのです。もし、よろしければ、今日の会長との写真を、本に載せたいのですが……」伸一は、“掲載される写真を、自分との語らいの場面にしたい”という彼女の要請に恐縮した。後日、出版された写真集が届けられた。彼女の言葉通り、伸一と握手を交わした写真が掲載されていた。「人権運動の母」の、優しく美しい笑顔が光っている。冒頭には、こう書かれていた。「この写真は未来について語っています。わが人生において、これ以上、重要な瞬間を考えることはできません」。そして、文化の相違があっても、人間は共に進むことができ、この出会いは、「世界平和のための新たな一歩なのです」と。(「誓願」の章、350~351ページ)

<名場面編>

<93年(同5年)2月、山本伸一は空路、コロンビアからブラジルへ>

「私は94年間も待っていた」

リオデジャネイロの国際空港では、伸一が到着する二時間前から、一人の老齢の紳士が待ち続けていた。豊かな白髪で、顔には、果敢な闘争を経てきた幾筋もの皺が刻まれていた。高齢のためか、歩く姿は、幾分、おぼつかなかったが、齢九十四とは思えぬ毅然たる姿は、獅子を思わせた。今回の伸一の招聘元の一つである、南米最高峰の知性の殿堂ブラジル文学アカデミーのアウストレジェジロ・デ・アタイデ総裁である。(中略)エレノア・ルーズベルト米大統領夫人や、ノーベル平和賞を受賞したフランスのルネ・カサン博士らと、「世界人権宣言」の作成に重要な役割を果たしてきた。

(中略)

総裁は、ヨーロッパ在住の友人から、伸一のことを聞き、その後、著作も読み、また、ブラジルSGIメンバーとも交流するなかで、その思想と実践に強い関心と共感をいだき、伸一と会うことを熱望してきたという。空港で、今か今かと伸一の到着を待つ総裁の体調を心配し、「まだ、お休みになっていてください」と気遣うSGI関係者に、総裁は言った。「私は、九十四年間も会長を待っていた。待ち続けていたんです。それを思えば、一時間や二時間は、なんでもありません」伸一がリオデジャネイロの空港に到着したのは午後九時であった。一行を、アタイデ総裁らが、包み込むような笑みで迎えてくれた。総裁は、一八九八年(明治三十一年)生まれで、一九〇〇年(同三十三年)生まれの恩師・戸田城聖と、ほぼ同じ年代である。伸一は、総裁と戸田の姿が二重写しになり、戸田が、自分を迎えてくれているような思いがした。

(中略)

「会長は、この世紀を決定づけた人です。力を合わせ、人類の歴史を変えましょう!」

(中略)

伸一は応えた。

「総裁は同志です! 友人です! 総裁こそ、世界の“宝”の方です」(「誓願」の章、355~356ページ)

第30巻<下>

<御書編>

御文

大難 だいなんなくば法華経の行者ぎょうじゃにはあらじ(御書1148ページ、椎地四郎殿御書)

通解大難だいなんがなければ、法華経の行者ぎょうじゃであるはずがない。

小説の場面から

<1981年(昭和56年)11月13日、山本伸一は高知支部結成25周年記念勤行会に出席。席上、広宣流布の道に、大難が競い起こることを訴え、信心の姿勢を語った>

広布の苦難は永遠の福運に

「苦難の時にこそ、その人の信心の真髄がわかるものです。臆病の心をさらけ出し、逃げ去り、同志を裏切る人もいる。また、“今こそ、まことの時である”と心を定め、敢然と奮い立つ人もいる。その違いは、日ごろから、どれだけ信心を磨き、鍛えてきたかによって決まる。一朝一夕で強盛な信心が確立できるわけではありません。いわば、日々、学会活動に励み、持続していくのは、苦難の時に、勇敢に不動の信心を貫いていくためであるともいえる。私たちは凡夫であり、民衆の一人にすぎない。ゆえに、軽視され、迫害にさらされる。しかし、私たちが弘めているのは、妙法という尊極無上の大法であるがゆえに、必ずや広宣流布していくことができます。また、『法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し』(御書856ページ)です。したがって、最高の大法を流布する“弘教の人”は、最極の人生を歩むことができる。広布のため、学会のために、いわれなき中傷を浴び、悔しい思いをしたことは、すべてが永遠の福運となっていきます。低次元の言動に惑わされることなく、仏法の法理のままに、無上道の人生を生き抜いていこうではありませんか!」(「勝ち鬨」の章、86~87ページ)


御文

王地おうちうまれたれえば身をばしたがえられたえまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず(御書287ページ、撰時抄)

通解 王の権力けんりょくが支配する地に生まれたのであるから、身はしたがえられているようであっても、心まで従えられているのではない。

小説の場面から

国民のために国家がある!

この御文は、ユネスコが編纂した『語録 人間の権利』にも収録されている。つまり、“人間は、国家や社会体制に隷属した存在ではない。人間の精神を権力の鉄鎖につなぐことなどできない”との御言葉である。

(中略)

もちろん、国家の役割は大きい。国家への貢献も大切である。国の在り方のいかんが、国民の幸・不幸に、大きな影響を及ぼすからである。大事なことは、国家や一部の支配者のために国民がいるのではなく、国民のために国家があるということだ。日蓮大聖人がめざされたのは、苦悩にあえいできた民衆の幸せであった。そして、日本一国の広宣流布にとどまらず、「一閻浮提広宣流布」すなわち世界広布という、全人類の幸福と平和を目的とされた。この御精神に立ち返るならば、おのずから人類の共存共栄や、人類益の追求という思想が生まれる。世界が米ソによって二分され、東西両陣営の対立が激化していた一九五二年(昭和二十七年)二月、戸田城聖が放った「地球民族主義」の叫びも、仏法思想の発露である。仏法を実践する創価の同志には、誰の生命も尊く、平等であり、皆が幸せになる権利があるとの生き方の哲学がある。友の不幸を見れば同苦し、幸せになってほしいと願い、励ます、慈悲の行動がある。この考え方、生き方への共感の広がりこそが、世界を結ぶ、確たる草の根の平和運動となる。 (「誓願」の章、241~242ページ)

人類の将来への確かな希望

ここにフォーカス 創価学会は1981年(昭和56年)、UNHCR(国民難民高等弁務官事務所)と国連広報局のNGO(非政府組織)として登録されました。これまで、国連と協力して「現代世界の核の脅威」展、「戦争と平和展」「現代世界の人権」展などを世界各地で開催してきました。「勝ち鬨」の章に、「世界の平和を実現していくには、国連が力をもち、国連を中心に各国が平等の立場で話し合いを重ね、進んでいかなければならない」との池田先生の一貫した国連への思いが記されています。複雑な利害が絡む国際社会にあって、国連の無力論が叫ばれたこともありました。しかし、貧困や紛争など、地球的な諸問題を恒常的に話し合える場が国連にほかなりません。だからこそ、池田先生は、国連を「人類の議会」と位置付け、“国連中心主義”を繰り返し訴えてきたのです。国際社会では近年、自然災害への対応や難民問題などにおいて、「信仰を基盤とした団体(FBO)」の人道支援での貢献に大きな期待が寄せられています。国連のチョウドリ元事務次長は、「SGIの皆さんが着実な草の根運動を通して『平和の文化』の建設に立ち上がり、積極的にその輪を広げていく姿に、人類の将来への確かな希望を見出しました」と述べています。地球を包むSGIのネットワークが持つ使命は、限りなく大きいのです。

第30巻<上>

<解説編>

紙面講座池田主任副会長

 第30巻<下>は、1981年(昭和56年)から2001年(平成13年)の、20年にわたる“広布の軌跡”が描かれています。この20年間は次の2点に集約することができます。①青年を励まし、青年を育てる20年②世界広宣流布の礎を築く20年――であります。「勝ち鬨」の章は、61日間で北半球を一周する海外平和旅を終えた山本伸一が、結成30周年を記念する青年部総会に祝電を送る場面から始まります。そして、「誓願」の章は、青年部の結成50周年の意義を込めた本部幹部会で締めくくられています。青年への励ましで始まり、青年への励ましで終わる――まさに、青年を育てることに魂を注いだ20年間の象徴ではないでしょうか。1981年11月、第1次宗門事件で苦しんできた四国を訪問した伸一は、四国男子部の要請を受け、彼らが作成した愛唱歌の歌詞に筆を入れます。さらに、二十数回もの推敲を重ね、完成したのが「紅の歌」でした。さらに、同年12月、宗門事件の謀略の嵐が吹き荒れた大分では、県青年部幹部会に出席し、長編詩「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」を発表。「『二〇〇一年五月三日』を目標に、広布第二幕の勝負は、この時で決せられることを銘記して、労苦の修行に励みゆくよう訴え」(116ページ)ました。 81年は宗門の悪僧らの理不尽な学会攻撃に対して、本格的な反転攻勢が開始された年です。伸一は、「新しい時代の夜明けを告げようと、『時』を待ち、『時』を創って」(54ページ)いきます。その焦点こそが青年でした。「常に青年の育成に焦点を当て、一切の力を注いできた」(209ページ)のです。今月、男女青年部は結成70周年の佳節を刻みました。池田先生は、それぞれの記念の大会にメッセージを寄せ、男子部には「従藍而青のスクラム」、女子部には「旭日のスクラム」を広げゆくことを呼び掛けました。「青年たちよ! 学会を頼む。広布を頼む。世界を頼む。二十一世紀を頼む」(201ページ)――師の思いに応え、新章節を開きゆく青年を先頭に、各部一体で青年・未来部を育成し、青年のスクラムを拡大していきましょう。

金剛不壊の大創価城

第30巻<下>で描かれる20年は、世界宗教へと飛翔を遂げた20年でもありました。SGI会長である伸一は世界各地を訪れ、海外の友と“師弟の絆”を結んでいきます。この間、伸一に対して「桂冠詩人」(81年)、「世界桂冠詩人賞」(95年)や、国家勲章、大学からの名誉学術称号などが贈られます。こうした栄誉は、「学会の平和・文化・教育運動への高い評価であり、各国同志の社会貢献への賞讃と信頼の証」(252ページ)でした。また、伸一は、各国の指導者との対話にも力を注ぎます。その行動は、「世界平和を実現する道になり、また、学会への理解を促し、その国の同志を守ることにもつながっていく」(同)との信念の発露でした。世界広布の潮流が広がる中で、第2次宗門事件が起こります。第1次宗門事件の後も、伸一は一貫して、「僧俗和合への最大の努力を払い、宗門の外護に全面的に取り組んで」(289ページ)いきました。しかし、宗門は「悪鬼入其身」と化し、信徒支配の体質を現しました。宗門は「自ら学会から離れていった」(335ページ)のです。創価の同志は、悪辣な謀略を冷静に見抜き、破邪顕正の情熱をたぎらせて、敢然と戦いました。それを可能にしたのは、ただ同志のためにと、生命を削る覚悟で励ましを送り続けてきた、伸一の戦いがあったからです。第1次宗門事件の折、伸一は「もう一度、広宣流布の使命に生き抜く師弟の絆で結ばれた、強靱な創価学会を創ろう」(314ページ)と行動します。「そのなかで後継の青年たちも見事に育ち、いかなる烈風にも微動だにしない、金剛不壊の師弟の絆で結ばれた、大創価城が築かれて」(同)いきました。その絆は、国内にとどまらず、世界にも広がっていきました。本年は、「魂の独立」から30周年。宗門の鉄鎖を断ち切り、“創価のネットワーク”は、世界192カ国・地域に広がっています。感染症や気候変動など、地球規模の危機に直面する今、「世界の同志が草の根のスクラムを組み、新しい平和の大潮流を起こす時」(433ページ)です。

一人の本物の弟子

第30巻<下>の最後に描かれているのは、2001年11月の本部幹部会です。伸一は胸中で、青年たちに「共に出発しよう!命ある限り戦おう! 第二の『七つの鐘』を高らかに打ち鳴らしながら、威風堂々と進むのだ」(436ページ)と語り掛けます。この場面で小説が終わっているのは、「広宣流布という大偉業は、一代で成し遂げることはできない。師から弟子へ、そのまた弟子へと続く継承があってこそ成就される」(434ページ)とある通り、第2の「七つの鐘」の構想実現を池田門下に託したということではないでしょうか。第1の「七つの鐘」は、1930年(昭和5年)、学会創立から始まりました。伸一は、先師・恩師の構想を、7年ごとの前進の中で次々に実現していきます。そして、第1の「七つの鐘」は、79年(同54年)に鳴り終えます。2001年、第2の「七つの鐘」が始まります。第2の「七つの鐘」の2番目の鐘が打ち鳴らされた08年からの7年間、広宣流布大誓堂が落成(13年)。全世界の池田門下が団結し、世界広布新時代が開幕します。さらに、3番目の鐘の始まりである15年からの7年間では、世界宗教としての体制を確立するとともに、小説『新・人間革命』の完結(18年)を刻みました。明22年から、いよいよ4番目の鐘が打ち鳴らされます。第2の「七つの鐘」が鳴り終える50年には、学会創立120周年を刻みます。第2の「七つの鐘」は、池田門下の団結と前進の指標でもあります。第30巻<下>の結びで、伸一は恩師・戸田先生の「中核の青年がいれば、いな、一人の本物の弟子がいれば、広宣流布は断じてできる」(434ページ)との言葉を紹介しています。全ては真剣な一人から始まります。創立100周年の2030年を目指して、自らが「一人の本物の弟子」として立ち上がり、わが人間革命の歴史をつづってまいろうではありませんか。

名言集

毀誉褒貶の徒

学会を担う主体者として生きるのではなく、傍観者や、評論家のようになるのは、臆病だからです。また、すぐに付和雷同し、学会を批判するのは、毀誉褒貶の徒です。(「勝ち鬨」の章、183ページ)

若き逸材

新しき時代の扉は青年によって開かれる。若き逸材が陸続と育ち、いかんなく力を発揮してこそ、国も、社会も、団体も、永続的な発展がある。(「誓願」の章、209ページ)

核兵器への認識

核兵器の脅威は、実際に被爆し、苦しみのなかで生きてきた人たちの生の声に耳を傾け、映像や物品などを通し、破壊の現実を直視してこそ、初めて、実感として深く認識することができる。(「誓願」の章、236ページ)

統合の哲学

分断は分断を促進させる。ゆえに、人間という普遍的な共通項に立ち返ろうとする、統合の哲学の確立が求められるのである。(「誓願」の章、273ページ)

本物の信心

広宣流布の途上に、さまざまなことがあるのは当然の理である。しかし、何があっても恐れず、惑わず、信心の眼で一切の事態を深く見つめ、乗り越えていくのが本物の信心である。(「誓願」の章、285ページ)