新・人間革命 第29巻

世界広布の大道「小説『新・人間革命』に学」

小説「新・人間革命」に学ぶ

今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第29巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。

第29巻

<基礎資料編>

【物語の時期】1978年(昭和53年)10月10日~79年2月16日「常楽」の章

「常楽」の章

1978年(昭和53年)10月10日、山本伸一は、ハーバード大学名誉教授のガルブレイス博士と会談。心通う率直な語らいのなかで、友情の絆が結ばれていく。大阪を訪れた伸一は11日、熱原法難700年記念の城東区の総会に出席。現代における殉教の精神について指導する。21日、東京・板橋文化会館で行われた本部幹部会では、伸一が作詞した新婦人部歌「母の曲」、茨城の歌「凱歌の人生」が発表される。終了後も「母の曲」の歌を婦人部の代表と共に聴く。また、埼玉には「広布の旗」、東京・世田谷には「地涌の旗」、新潟には「雪山の道」、栃木には「誓いの友」と、次々に県・区歌を作詞して贈る。一方、弁護士・山脇友政の謀略に踊る宗門僧によって、学会への攻撃が激しさを増していた。伸一は同志を全力で励まし続け、指導部には「永遠の青春」を、山梨には「文化と薫れ」を作詞し、贈る。11月10日、大阪・泉州文化会館を初訪問し、有志の育てた菊を観賞。12日、伸一の作詞した「泉州の歌」(後の「歓喜の城光れ」)の歌詞が発表される。

<名場面編>

 <1978年(昭和53年)11月、山本伸一は大阪へ向かい、完成したばかりの泉州文化会館を初訪問。会館には、彼を歓迎する大輪の菊が飾られていた。伸一はその真心に応えるため、12日、各部合同勤行会を開催する>

配慮の中に人間主義は輝く

この参加者は、泉州文化会館を菊の花で荘厳するために、丹精込めて菊を育てた各大ブロックの有志たちであった。二日前、咲き薫る菊の花を見た伸一は、関西の幹部に、「この花を育ててくれた方たちは、勤行会には集って来られますか」と尋ねた。メンバーが、参加対象にはなっていないことを聞くと、こう提案した。「勤行会の開催回数を増やして、菊を育ててくださった方々をお招きできませんか。私は、何回でも出席させていただきます。陰で苦労し、真心を尽くしてくださった人を、最も大事にするのが学会です。私は、直接お会いして、心から御礼申し上げたいんです」そして、十二日午後の各部合同勤行会が決まったのである。人びとを思う、一つ一つの配慮のなかにこそ、人間主義の輝きがある。勤行会で彼は、(中略)菊作りの労作業に感謝し、賞讃と励ましの句を、次々と贈ったのである。

「天に月 地に菊薫る 広布かな」

「菊作り 喜ぶ人みて 陰で泣く」

「目もさめる 此の世の絵巻か 菊の庭」

「菊見つつ 信のこころが 見ゆるかな」

「霊山も かくの如きか 菊の波」

勤行会での指導を終えた彼は、会場の片隅にいた数人の老婦人のもとへ歩みを運んだ。苦労して広宣流布の道を切り開いてこられた草創の功労者であろう。広布の幾山河を歩み抜いてきた苦闘と栄光が偲ばれた。仏を仰ぐ思いで、老婦人の肩に手をかけて言った。「よくいらっしゃいましたね。偉大なるお母さん方にお会いできて嬉しい。お疲れ様です。皆さんを見ていると、私のおふくろのように思えるんです。うんと長生きしてください。それが私の願いです」(「常楽」の章、116~118ページ)

<基礎資料編>

「力走」の章

11月18日、学会創立48周年を記念する本部幹部会で山本伸一は、「七つの鐘」が明1979年(昭和54年)に鳴り終わることを述べ、未来展望を語る。翌日、「11・18」を記念して提言を発表。「地方の時代と創価学会の役割」や環境問題に言及する。21日、伸一は神奈川の戸塚文化会館へ。22日、群馬県では彼が作詞した県歌「広布の鐘」が発表される。23日、伸一は第1回関東支部長会に出席し、幹部の在り方について指導。また、激闘のなか、「静岡健児の歌」を作詞し、同志に贈る。29日に大阪入りした伸一は、30日には三重へ。12月1日、名張市を初訪問。地元の壮年本部長やその家族など、同志を激励する。三重から大阪に戻り、高知指導へ。雄大な太平洋に臨む高知研修道場を初訪問し、連日、同志の激励に全精魂を注ぐ。また、香川県の四国研修道場に舞台を移し、12日の徳島県幹部総会では、“覚悟”の信心を訴える。12月26日から28日には、栃木・群馬へ。“今、戦わずして、いつ戦うのだ! 時は今だ! この一瞬こそが、黄金の時だ!”――伸一は、自身に言い聞かせ、「力走」を続ける。

<名場面編>

〈12月、四国指導に赴いた山本伸一は、高知県を訪問。同志の激励に全力を注ぎ、その激闘は高知滞在最終日まで続いた〉

誠実な振る舞いが心に響く

午前十一時半から、高知文化会館開館一周年記念の近隣勤行会が行われた。近隣勤行会という名称にしてはいたが、「来られる方は、皆、来てください」と全県に連絡が流れていたので、会館の大広間は参加者でいっぱいになり、ほかの部屋も次々と人であふれた。

(中略)

伸一は、運営に使われていた部屋に顔を出した。彼の姿を見ると、合唱団のピアノ演奏を担当した女子部員が、伸一に報告した。「先生! 私は平尾光子と申します。今回、高知で先生の出られた勤行会に、すべて合唱団として参加することができました。実は、家族のなかで、父だけが未入会なんですが、私は感激のあまり、毎日、先生のお話を父に伝えておりました。父も、熱心に話に耳を傾け、一緒に喜んでいました。それで、こんな句を詠んでくれたんです」彼女は、短冊を差し出した。「大いなる 冬日の如き 為人」「曰はく 一語一語の 暖かし」伸一は、微笑みながら言った。「いいお父さんだね。あなたは本当に愛されているんです。娘さんが、冬の太陽のように周囲を照らし出し、慕われる人に育ったことを、心から喜んでいる心情が伝わってくる句です。また、あなたの姿を通して、私のことを知り、共感してくださっているんだね。娘としてのあなたの誠実な振る舞いが、お父さんの心に響いたんです。大勝利です。私も、お父さんに句をお贈りしたいな」

(中略)

「お父さんに、『近日中に句をお贈りさせていただきます』とお伝えください」それから一週間ほどして、伸一から彼女のもとへ、父親宛てにトインビー博士との対談集『二十一世紀への対話』が届けられた。そこには、一句が認められていた。「父の恩 娘の幸せ 祈る日々」ほどなく父親は、自ら入会した。そして、自宅を会場に提供するなど、学会を守る頼もしい壮年部となっていったのである。(「力走」の章、227~229ページ)

<基礎資料編>

「清新」の章

1979年(昭和54年)1月、山本伸一は東北指導へ。12日には岩手・水沢文化会館で開館を記念する自由勤行会を開催。「皆が“地域の柱”に!」と訴える。東日本大震災(2011年3月11日)で、地域の人々のために勇んで献身する学会員のなかには、この自由勤行会で伸一との出会いを結んだ人たちが少なくなかった。伸一は、出発の直前まで、会館の庭で子どもたちと相撲を取るなど、同志との交流に努めた。14日、青森文化会館で、10年前の約束を忘れず訪ねてきた、下北半島のかつての中等部員たちを歓迎する。幹部会や懇談会に臨み、翌15日には、「清新」の気にあふれた新成人のメンバーや、役員の青年らと記念撮影。さらに会館周辺をまわり、路上で何人もの学会員を励ます。東京に戻った伸一は、20日、オックスフォード大学のウィルソン教授と対談。後年、二人は対談集『社会と宗教』を発刊する。伸一はインドへの出発地を、戸田城聖が東洋広布を託した九州と定める。2月1日、九州研修道場での記念幹部会で、インド国歌の熱唱を聴き、世界広布への決意を新たにする。

<名場面編>

〈79年(同54年)1月、山本伸一は青森文化会館で、彼を訪ねてきた下北のメンバーと懇談した〉

勝利者とは誓いを果たす人

十年前の春のことである。下北半島の大湊で行われた中等部員会に集った三、四十人のメンバーの写真と、代表が綴った決意文が、伸一のもとへ郵送されてきた。彼は、本州最北端の下北で、中等部員が大志に燃え、喜々として信心に励んでいることが、たまらなく嬉しかった。すぐに、非売品である自身の『若き日の日記』第二巻に、「下北の中等部員の成長と栄光を ぼくはいつも祈ろう。此の写真の友と十年後に必ず会おう」と認めて贈った。

(中略)

伸一は、かつての中等部員らを心から歓迎した。

(中略)

「よく来たね! みんな、必ず成長して集い合おうと、御本尊に誓ったと思う。そして、今日まで、その誓いを忘れずに頑張ってきた。それが大事なんだ。御本尊に誓ったこと、約束したことを破ってはいけない。決意することは容易です。しかし、実行しなければ意味はない。自分の立てた誓いを果たすことが尊いんです。そこに人生の勝利を決する道があるんだよ」これまでメンバーは、折々に集っては誓いを確認し、切磋琢磨してきた。この日、伸一を訪ねてやって来た青年の一人に木森正志がいた。彼は、(中略)高校二年生になった年に創価大学が開学すると、“ぼくも、山本先生が創立した大学で学びたい”と強く思った。家が経済的に大変なことは、よくわかっていた。でも、意を決して、両親に頼み込んで許しを得た。猛勉強に励み、高校を卒業した翌年に創価大学に入学した。下北地方で初の創大生となった。東京で働いていた兄のアパートに転がり込んだ。土木工事等、アルバイトをしながらの学生生活であった。だが、“伸一のもとに集う十年後”をめざして、木森は、歯を食いしばりながら、自身への挑戦を続けてきたのだ。勝利者とは、自分に打ち勝つ、忍耐の人である。自らの誓いを果たし抜いた人である。(「清新」の章、280~282ページ)

<基礎資料編>

「源流」の章

2月3日、山本伸一は、香港を訪れ、4日には九竜会館を初訪問。香港広布18周年を祝う記念勤行会へ。6日午前零時過ぎ、インド・デリーに到着。午後には、デリー大学での図書贈呈式に出席。翌7日以降、デサイ首相やバジパイ外相等、要人との会見が続く。過密なスケジュールのなか、インドの同志との懇談会が行われる。全インドから集った約40人のメンバーに、伸一は、「ガンジス川の流れも、一滴の水から始まる。同じように皆さんは、インド広布の大河をつくる、源流の一滴、一滴となる方々です」と指導する。9日、ジャワハルラル・ネルー大学では、ナラヤナン副総長と友誼を結ぶ。戸田城聖の生誕の日にあたる2月11日、パトナに移動した伸一は、夕刻、ガンジス川のほとりで、東洋広布を念願した恩師を偲ぶ。カルカッタ(後のコルカタ)では、タゴールの精神を継承するラビンドラ・バラティ大学に図書を贈呈。インド博物館では、仏教盛衰の歴史に思いを馳せる。その後、インド創価学会(BSG)は大発展を遂げ、広布の大河となっていく。

<名場面編>

〈2月、インドを訪れた山本伸一は、カルカッタ(現在のコルカタ)郊外にある学校を視察した〉

苦難多き人生こそ最も崇高

伸一たちは、視覚に障がいがある人を支援する付属の学校も訪問した。自身も目が不自由な校長が、柔和な笑みを浮かべ、伸一と握手を交わし、実技訓練所へ案内してくれた。生徒たちは、手探りでボルトとナットの組み立て作業などに励んでいた。伸一は、その様子を見ながら、生徒に語りかけた。「こうして挑戦していること自体、すごいことなんです。皆さんが技術を習得し、社会で活躍できるようになれば、目の不自由な多くの人に希望の光を送ることになります」見学を終えると、校長、教員と共に、生徒の代表が見送りに出てきた。伸一は、その生徒の一人を抱きかかえながら言った。「不自由な目で生き抜いていくことは、人一倍、努力も必要であり、苦労も多いことでしょう。しかし、だからこそ、その人生は最も崇高なんです。誇りをもって、さらに、さらに、偉大なわが人生を進んでください。人間は、皆、平等です。実は、誰もが、さまざまな試練や困難と戦っています。そのなかで、自分自身でどう希望をつくり、雄々しく生き抜いていくかです。これをやり抜いた人が真実の人生の勝利者なんです」

(中略)

「負けてはいけません。断じて勝ってください。勝つんですよ。人は、自分の心に敗れることで、不幸になってしまう。私は、あなたたちの勝利を祈っています」彼は、なんとしても、生徒たちの心に赤々とした勇気の火をともしたかったのである。さらに、校長の手を固く握り締めながら、力を込めて訴えた。「この方々は、世界の宝です。インドの希望の星となります。人生の勝利の栄冠を頂く人に育み、世に送り出してください」「どうか、また来てください!」こう言って盛んに手を振る生徒たちの目には、涙があふれていた。(「源流」の章、448~450ページ)

第29巻

<御書編>

御文
わすれても法華経をたもつ者をばたがい そしるべからずか、其故そのゆえは法華経を持つ者は必ずみな仏なり仏を毀りては罪を るなり(御書1382ページ、松野殿御返事まつのどのごへんじ

通解

決して、法華経をたもつ者を たが いに そし ってはならない。その理由は、法華経を持つ者は必ず みな 仏であり、仏を謗れば罪となるからである。

小説の場面から

<1978年(昭和53年)12月、三重・名張市を訪れた山本伸一は、地元の代表や方面・県幹部との協議会で、厳しく怨嫉を戒める>

リーダーと心合わせ応援を

「学会のリーダーは、人格、見識、指導力等々も優れ、誰からも尊敬、信頼される人になるべきであり、皆、そのために努力するのは当然です。しかし、互いに凡夫であり、人間革命途上であるがゆえに、丁寧さに欠けるものの言い方をする人や、配慮不足の幹部もいるでしょう。いやな思いをさせられることもあるかもしれない。そうであっても、恨んだり、憎んだりするならば、怨嫉になってしまう。

(中略)

また、リーダーの短所が災いして、皆が団結できず、活動が停滞しているような場合には、その事態を打開するために、自分に何ができるのかを考えていくんです。他人事のように思ったり、リーダーを批判したりするのではなく、応援していくんです。それが『己心の内』に法を求める仏法者の生き方です。末法という濁世にあって、未完成な人間同士が広宣流布を進めていくんですから、意見の対立による感情のぶつかり合いもあるでしょう。でも、人間の海で荒波に揉まれてこそ、人間革命できる。人間関係で悩む時こそ、自分を成長させる好機ととらえ、真剣に唱題し、すべてを前進の燃料に変えていってください。何があっても、滝のごとく清らかな、勢いのある信心を貫いていくんです」 (「力走」の章、162~163ページ)


御文

この法門を日蓮申すゆえ忠言ちゅうげん 耳にさからう道理なるが故に流罪るざいせられ命にもおよ びしなり、しかれどもいまだこりずそうろう(御書1056ページ、曾谷殿御返事そやどのごへんじ

通解

この法門を日蓮がとくので、「忠言ちゅうげんは耳にさか らう」というのが道理であるから、流罪るざいされ、命の危険にもおよんだのである。しかしながら、いまだこり てはいない。

小説の場面から

<1979年(昭和54年)1月、山本伸一は、神奈川・川崎文化会館での本部幹部会で、恩師・戸田城聖への思いを語った>

“いまだこりず候”の精神で

は、日々、戸田先生の指導を思い起こし、心で先生と対話しながら、広宣流布の指揮を執ってまいりました。戸田先生が、豊島公会堂で一般講義をされたことは、あまりにも有名であり、皆さんもよくご存じであると思います。

(中略)

先生は、『これだよ。“いまだこりず候”だよ』と強調され、こう語られたことがあります。『私どもは、もったいなくも日蓮大聖人の仏子である。地涌の菩薩である。なれば、わが創価学会の精神もここにある。不肖私も広宣流布のためには、“いまだこりず候”である。大聖人の御遺命を果たしゆくのだから、大難の連続であることは、当然、覚悟しなければならない! 勇気と忍耐をもつのだ』――その言葉は、今でも私の胸に、鮮烈に残っております。人生には、大なり小なり、苦難はつきものです。ましてや広宣流布の大願に生きるならば、どんな大難が待ち受けているかわかりません。予想だにしない、過酷な試練があって当然です。しかし、私どもは、この“いまだこりず候”の精神で、自ら決めた使命の道を勇敢に邁進してまいりたい。もとより私も、その決心でおります。親愛なる同志の皆様方も、どうか、この御金言を生涯の指針として健闘し抜いてください」 (「清新」の章、303~304ページ)

ここにフォーカス 「日蓮仏法」は現実と戦う宗教

ここにフォーカス日蓮大聖人が、「立正安国論」を著された契機は、正嘉元年(1257年)の「正嘉の大地震」でした。歴史書『吾妻鏡』には、地震の様子が記されています。「戌の刻に大地震。音がして、神社・仏閣で一つも無事なものはなかった。山岳が崩壊して民家は転倒」「諸所で地面が割れ、水が噴き出した」(『現代語訳 吾妻鏡14』吉川弘文館)立正安国論が提出された文応元年(同60年)にも、災害が襲います。「洪水で河辺の民家のほとんどが流失した」<6月1日>。さらに、疫病も大流行し、“守護人たちは疫病退治の祈とうを命じられた”と記されています。そんな世相の中で蔓延したのが、厭世主義でした。苦しみから逃れようと、人々は念仏信仰に傾斜していきます。その教えは“現実逃避”“無気力”の風潮を生みました。大聖人は「遂にやむを得ず、国主諫暁の書一通を認め、その名を『立正安国論』と号した」(御書33ページ、通解)のです。「清新」の章に、「この荒れ狂う現実のなかで、生命力をたぎらせ、幸福を築き上げていく道を教えているのが日蓮仏法」とあります。社会が不安に揺れ動く今こそ、清新な決意で、立正安国の精神を輝かせていく時です。

第29巻

<解説編>

紙面講座池田主任副会長

第29巻の舞台は、宗門の僧が学会批判を繰り返していた、1978年(昭和53年)10月から翌年2月までです。「常楽」の章には、山本伸一が、熱原の法難に思索を巡らせる場面が描かれています。この法難は、弘安2年(1279年)を頂点に、熱原郷(現在の静岡県富士市の一部)で起こった日蓮門下への弾圧事件です。当時、熱原郷では弘教の波が広がり、恐れを抱いた、地域の天台宗寺院の院主代・行智による迫害が起こります。その魔の手は、熱原の農民信徒にも及び、中心的存在であった神四郎、弥五郎、弥六郎が殉教。それでも、農民信徒たちは、信仰を捨てようとしませんでした。熱原の法難の歴史を振り返りつつ、伸一は「断じて殉教者を出すような状況をつくってはならない。もしも殉難を余儀なくされるなら、私が一身に受けよう!」(35ページ)と覚悟します。最愛の同志を守るため、いかなる攻撃に遭ったとしても、矢面に立って耐え忍ぶ決心だったのです。戦後の広布の大伸展は、「軍部政府の弾圧と戦って獄死した初代会長・牧口先生の死身弘法の精神を、戸田先生が、そして、同志が受け継いできたから」 (37ページ)でした。現在の世界広布の時代が開かれたのも、「大阪事件」「宗門事件」等々、池田先生が先師・恩師の精神を継承し、死身弘法の覚悟で一人一人の励ましに徹してきたからです。同章に、「『常楽我浄』の境涯の確立があってこそ、真の『衆生所遊楽』があり、それは、死身弘法の決意と実践から生まれる」(同)とあります。この「死身弘法の決意と実践」とは、「“人生の根本目的は広布にあり”と決めること」(35ページ)であり、「人びとに仏法を教えるために、自らの生活、生き方をもって、御本尊の功力、仏法の真実を証明していく」(同)ことです。

偉大なる起点

1978年(昭和53年)の1年間で、伸一は北海道から九州まで10方面を訪問し、30曲ほどの学会歌を作成しました。第1次宗門事件の渦中にあった「嵐吹き荒れる激動の一年」(233ページ)は、「創価の松明を掲げ、守り抜いた力走の一年」(同)であり、「新しき歴史を築いた建設の一年」(同)でもあったのです。全国を力走する中で、伸一が訴えたのは、「信心の基本」に立ち返るということでした。それは、「究極的には“御本尊根本”ということ」(102ページ)であり、「何があっても御本尊に向かい、題目を唱え抜いていくこと」(同)でした。また、リーダーの姿勢について、「皆に信心の養分を送り続けていく存在であり、そのためには、自らが信心強盛な先輩を求めて切磋琢磨し、常に成長し続けていくことが大事です」(168ページ)と述べます。どれだけ同志を立ち上がらせ、共に広布のために汗を流すことができたか――この一点に、リーダーの使命があることを、伸一は各地で訴え、責任と自覚を促していったのです。「清新」の章は、79年(同54年)の新年から始まります。力走した78年から清新な決意で、伸一は79年を迎え、再び力走を開始します。「七つの鐘」の終了を迎える同年は、“総仕上げ”の年であると同時に、「偉大なる起点」(236ページ)でもありました。会長就任から20年目を迎え、日本国内の広布の基盤は盤石なものになりつつありました。伸一は「今後、自分が最も力を注ぐべきは世界広布」(326ページ)と考えます。2月、彼は香港・インドを訪問し、世界広布への新たな行動を開始します。戸田先生の誕生日である11日、伸一はインド・ガンジス川のほとりに立ち、恩師に誓います。「先生! 伸一は征きます。先生がおっしゃった、わが舞台である世界の広宣流布の大道を開き続けてまいります! 弟子の敢闘をご覧ください」(433ページ)宿舎に戻った後も、彼は恩師の遺影に向かい、広布の大闘争を誓います。広布の「偉大なる起点」は、弟子が師匠に誓いを立てることから始まります。「世界広布は、その誓いと行動の継承があってこそ可能となる」(371ページ)のです。

不確実性と確実性

第29巻では、“世界の知性”との対話の模様がつづられています。米ハーバード大学名誉教授で、世界的な経済学者であるガルブレイス博士との対談では、「不確実性」と「確実性」が話題に上ります(78年10月)。伸一は、不確実性の時代の中で、必要な指導理念について問います。博士は、人間の行う努力は常に修正されていくべきであり、その考え方を受け入れること自体が、一つの指導理念になると述べます。これに対して伸一は、「人間を高め、成長を図っていくことが、常に的確な判断をしていくうえで、極めて大事」(19ページ)であり、「仏法を基調にした精神変革、人間革命の運動こそ、二十一世紀を開く大河となる」(20ページ)と訴えます。英オックスフォード大学のウィルソン社会学教授とは、今後、宗教が担うべき使命について意見が交わされました(79年1月)。「清新」の章では、この対談の内容に触れながら、「宗教は、人間の幸福のために、社会の繁栄のために、世界の平和のためにこそある」(310ページ)と記されています。さらに、宗教の比較・検証のために、「『人間を強くするのか、弱くするのか』『善くするのか、悪くするのか』『賢くするのか、愚かにするのか』」(321ページ)という尺度が求められることに言及しています。ウィルソン教授とは宗教の在り方を巡って、対談が重ねられました。伸一は「一民間人」として、また人間主義の「仏法者」として、宗教や思想の違いを超えて、「対話の橋」(316ページ)を架けてきました。この対話の道を真っすぐに進むことこそ、仏法者の使命です。同章に、「対話あってこそ、宗教は人間蘇生の光彩を放ちながら、民衆のなかに生き続ける」(315ページ)とあります。社会はコロナ禍という“不確実性”の中で、未来を見通すことができず、揺れ動いています。苦悩する友の心に寄り添い、語り合いながら、人間蘇生の光を放つ――この「創価の底力」を、今こそ発揮していきましょう。

名言集

女性の眼

生活者の視点に立つ女性の眼は、最も的確に、その社会の実像をとらえる。(「常楽」の章、14ページ)

晩年の実証

晩年における最高最大の信心の実証とは何か――財力や地位、名誉等ではない。ありのままの人間としての人格の輝きにある。(「常楽」の章、86ページ)

永遠の栄え

いかなる団体であれ、“基本”と“精神”の継承は、永続と発展の生命線である。そのうえに、時代に即応した知恵が発揮され続けていってこそ、永遠の栄えがある。(「力走」の章、176ページ)

心の魔

いかに困難であるかということばかりに目がゆき、現状に甘んじて良しとしてしまう。それは、戦わずして心の魔に敗れてしまっていることになる。(「清新」の章、241ページ)

決めて、祈って、動く

心を定め、祈って、動く――それを粘り強く、歓喜をもって実践する。単純なことのようだが、これが、活動にあっても、人生にあっても、勝利への不変の方程式なんです。(「清新」の章、242ページ)

大人の責任

物心両面にわたって、子どもを守り育てていくことは、大人の責任であり、義務である。(「源流」の章、407ページ)