新・人間革命 第9巻

小説「新・人間革命」に学ぶ

今回の「世界広布の大動 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第9巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。次回の「名場面編」は11日付、「御書編」は19日付、「解説編」は26日付の予定。

第9巻基礎資料

物語の時期
1964年(昭和39年)4月1日~12月末

「新時代」の章

1964年(昭和39年)4月、山本伸一は、恩師・戸田城聖の七回忌を一切に大勝利して迎え、学会が建立寄進した大客殿では、その法要が2日間にわたって営まれた。席上、伸一は、戸田の出獄後の歩みをつづる小説『人間革命』の執筆構想を発表。また、いよいよ仏法を本格的に社会に展開していく「本門の時代」に入ったことを宣言した。5月3日の本部総会では、次の7年間の目標として、正本堂の建立、600万世帯の達成などを発表する。「新時代」の船出の帆は上がったのである。12日、伸一は、アジア、オセアニアへと出発。オーストラリアでは、新たにメルボルン支部を結成し、広布に走る同志を全力で励ます。この頃、英語圏を中心に、各国で、学会への誤解と偏見に基づく報道がなされ、その影響が広がっていた。彼は、、現地のテレビ局のインタビューに応じ、自ら学会の真実を訴える。インドからの帰国後、同国のネルー首相死去の悲報に接した伸一は、一日も早く、世界に流布しなければならないと誓うのであった。

〈1964年(昭和39年)5月12日、オーストラリアへ出発した山本伸一は、経由地のフィリピンのマニラで、現地で奮闘する伊丹貴久子に励ましを送る〉

女(伊丹貴久子=編集部注)は、マニラで、懸命に学会活動に励んだ。しかし、カトリックの影響の強い国であり、文化の違いからか、大聖人の仏法を理解させることは、かない難しかった。また、戦時中日本軍の侵略を受けているだけに、反日感情も強かった。(中略)貴久子は、伸一に、フィリピンでの活動の現状を語り始めた。「先生、フィリピンでは、広宣流布はなかなか進みません。(中略)カトリックが人びとの生活に深く根を下ろし、(中略)そのなかで仏法を信ずるということは、本当に難しいんです」彼女の顔には、疲労の色がにしんでいた。日々、悩みつつ、初めての国で頑張り続けてきたのであろう。伸一は、包み込むような優しい口調で言った。「あなたの苦労はよくわかります。でも、大変なとこりで、人びとに信心を教えていくことこそ、本当の仏道修行です。御書にも『極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず』(三ニ九ページ)と仰せではありませんか。穢土とは、娑婆世界のことであり、現実というものの厳しさともいえる。しかし、厳しい環境であればあるほど、広宣流布に励む功徳は大きい。また、地涌の菩薩はどこにでもいる。この国にだけは、出現しないなんていうこと絶対にないから大丈夫だよ。真剣に広布を祈り、粘り強く仏法対話をかさねていけば、必ず信心をする人が出てきます」広宣流布が至難であることは、御書に照らしてみれば明らかである。御本仏の御遺命を果たす聖業が、容易あるはずがない。(中略)彼女は、懸命に動き、壁に突き当り、悩み抜いているのである。今、貴久子に何よりも必要なものは、励ましであった。指導といっても、一様ではない。信心がわからぬ人には、仏法のなんたるかを、懇切に教えなくてはならない。(中略)必死になって頑張っている人は、讃え励まし、元気づけることだ。(「新時代」の章、64~66ページ)

「光彩」の章

「本門の時代」の先駆けとなったのは、青年部であった。64年(昭和39年)6月、女子部は部員100万を達成。学生部も6月末の学生総会をめざし、部員5万人に。総会に出席した伸一は、待望の「創価大学」の設立構想を発表。7月には、男子部が年間目標である部員150万をいち早く達成する。伸一は10月、東南アジア、中東、欧州を歴訪。各地で出会った宝の同志を全力で激励する。10月10日、一行はフランスのパリを経て、チェコスロバキアのプラハへ。同国は当時、社会主義国であり、伸一が共産圏の国に足を踏み入れるのは初めてだった。翌日、バーツラフ広場などを視察し、ハンガリーのブダペストへ向かう。彼は、市民とソ連軍が衝突した「ハンガリー事件」に、心を痛めていた戸田城聖をしのびつつ、人間性を抑圧する社会体制の矛盾について思索を巡らせる。その後、パリに戻り、ノルウェーのオスロへ。孤軍奮闘する地区部長夫婦を励ます。帰路、彼は、人間の「光彩」に満ちた時代を開くために、人々の生命を磨き輝かせる対話を続ける決意を新たにする。

〈1964年10月16日、ノルウェーのオスロ訪問した伸一に対し、現地の地区部長・橋本浩治は、心から感謝の思いを伝える〉

「感謝」は幸福の原動力

本は、改まった口調で、伸一に語り始めた。(中略)「昨年の一月、パリの空港で、ノルウェーに来ていただきたいと申し上げた時、先生は、訪問のお約束をしてくださいました。その約束を、本当果たしてくださり、申し訳ない限りです。それに対して、私の方は、何も先生にお応えすることができません。しかし、そんな私のために、おいでくださったと思うと、感謝の言葉もありません。本当にありがとうございます」橋本の声は、喜びのためか、涙声になっていた。「いや、感謝しなければならないのは私の方だ。橋本さんに苦労をかけるんだもの・・・。それはそれとして、何ごとにつけても、その感謝の心は大切だね。感謝があり、ありがたいなと思えれば、歓喜が湧いてくる。歓喜があれば、勇気も出てくる。人に報いよう、頑張ろうという気持ちにもなる。感謝がある人は幸せであるというのが、多くの人びとを見てきた、私の結論でもあるんです。また、裏切っていく人間には、この感謝の心がないというものも真実だ。感謝がない人間は、人が自分のために、何かしてくれてあたりまえだと思っている。結局、人に依存し、甘えて生きているといってよい。だから、人が何かしてくれないと、不平と不満を感じ、いつも、文句ばかりがでてしまう。そして、少し大変な思いをすると、落ち込んだり、ふてくされたりする。それは、自分で自分を惨めにし、不幸の迷路をさまようことになる。御書に『妙法蓮華経と唱えた持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず』(三八三ページ)と仰せだ。人がどうだとか、何もしてくれないと文句を言うのは、己心の外に法を求めていることになる。結局、精神の弱さだ。すべては自分にある、自分が何をなすかだという、人間としての”自立の哲学”がないからなんだ。その哲学こそが、仏法なんだよ」(「光彩」の章、305~307ページ)

「鳳雛」の章

6月1日、青年部に新たに、高等部と中等部を設置することが発表される。伸一は7日、東京第二本部の男子高等部の結成式に出席する。65年(昭和40年)1月15日には、中等部が結成され、さらに、9月23日、少年部が誕生する。彼は、学会の未来を担う、大事なリーダーとして、まず、高等部の育成に全力で傾けた。10月1日夕刻、学会本部で、首都圏の高等部の部長276人が参加し、部旗の授与式が行われた。伸一は、次代の指導者たる「鳳雛」たち一人一人に、部旗を手渡し、励ましの言葉をかけ続けた。11月号の「大白蓮華」の巻頭言に、高等部への指針「鳳雛よ未来に羽ばたけ」書き贈る。文面には「勉学第一」で、新しき世紀への飛翔を願う伸一の熱い思いがあふれていた。66年(同41年)1月8日から、毎月、高等部の代表に御書講義を開始。一期生の講義修了時には、受講メンバーで「鳳雛会」(男子)、「鳳雛グループ」(女子)を結成し、その後も期を重ねることになる。伸一の全精魂を注いでの激励によって、21世紀を潤す創価後継の大河が開かれていった。

〈1966年(昭和41年)7月16日、伸一は、高等部の人材グループである鳳雛会・鳳雛グループの野外研修に出席。質問会で、工藤きみ子という足が不自由なメンバーが、自身の苦境と将来への不安を、涙浮かべながら吐露する〉

現実を打開するのが信心

藤は、広宣流布に生きる使命の大きさを思えば思うほど、自分の置かれた現実を、どう開いていけばよいのかわからず、もがき苦しんでいたのであろう。その時、伸一の厳しい叱咤が飛んだ。「信心は感傷ではない。泣いたからといって、何も解決しないではないか!」緊張が走った。室内は静寂に包まれた。伸一は、彼女を見すえながら、強いご調整で語り始めた。「あなたには、御本尊があるではないか!迷ってはいけない。ハンディを嘆いて、なんになるのか。いくら嘆いてみても、事態は何も変わりません。また、すべての人が、なんらかの悩みをかかえているものだ。いっさいが恵まれた人間などいません。学会っ子ならば、どんな立場や状況にあろうが、果敢に挑戦し、人生に勝っていくことだ。どうなるかではなく、自分がどうするかです。本当に教員になりたければ、必ず、なってみせると決めなさい。もし、大学に進学することが経済的に大変ならば、アルバイトをして学費をつくればよい。夜学に通ってもよい。使命に生きていこうとすることは、理想論を語ることではない。観念の遊戯ではない。足もとを見つめて、現実を打開していくのが信心です。困難を乗り越えていく姿のなかに、信心の輝きがある。いかなる状況下にあっても、誰よりも清らかに生き抜き、自分は最高に幸福であると言い切れる人生を送ることが、あなたの使命なんです」工藤は、唇をかみしめ、何度も、何度も頷いた。「そうだ。負けてはいけない。何があっても、負けてはだめだよ。強くなれ!頑張れ!頑張れ!頑張るんだよ」伸一の言葉には、厳しさのなかにも、優しさがあふれていた。 (「鳳雛」の章、187~189ページ)

「衆望」の章

64年の秋、日本国中が東京オリンピックに沸き返った。幾つもの人間ドラマを織りなした大会の閉会式では、国や民族の区別なく、腕や肩を組み、入り交じって行進する選手たちの姿が。伸一も、その模様を、テレビで見ながら、国家やイデオロギーの違いを超えて、地球民族主義の思想を、全世界に伝えていかねばならないと心に誓う。この頃、日本は高度成長のただ中にあった。だが、繁栄の陰で、住宅問題や社会福祉など、生活に直接かかわる環境整備は後回しにされてきた。庶民の声を汲み上げ、民衆を守る政治を実現しようと、11月、「衆望」担って公明党が結成される。12月2日、伸一は、沖縄本部で小説『人間革命』の筆を起こした。最も戦争の辛酸をなめ、人びとが苦悩してきた沖縄から、幸福と平和の波を広げようと思っていたのだ。伸一のペンが走った。「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた・・・・」偉大なる師の思想と真実を書き残す使命感と喜びが、彼の胸にたぎっていた。

〈1964年12月2日、伸一は沖縄の地で、小説『人間革命』の筆を起こす〉

恩師の心に思いを馳せて

悟空のペンネームで、伸一がつづる、この『人間革命』は、聖教新聞からの強い要請でもあって、明六五年(昭和四十年)の元日付から、聖教紙上に連載されることになった。(中略)ーー『人間革命』は、戸田を中心とした、創価学会の広宣流布の歩みをつづる小説となるが、それは、最も根源的な、人類の幸福と平和を建設しゆく物語である。そして、そのテーマは、一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にするーーことである。ならば、最も戦争の辛酸をなめ、人びとが苦悩してきた天地で、その『人間革命』の最初の原稿を夏侯惇決め、伸一は、沖縄の地を選んだのである。(中略)ーー物語は、一九四五年(昭和二十年)の七月三日の、戸田城聖の出獄は、人類の平和の朝を告げる「黎明」にほかならないことから、彼は、それを第一巻の第一章の章名としたのである。しかし、章名を記したところで、彼のペンは止まっていた。冒頭の言葉が、決まらないのである。(中略)”先生は、焼け野原となった無惨な街の姿を目の当たりにされ、何よりも、戦火にあえぐ民衆に、胸を痛められたにちがいない。そして、戦争という、最も卑劣な愚行を、憎まれたはずである。国民を戦争に駆り立ててきた指導者への怒りに、胸を焦がされていたはずである”彼は、戸田の心に思いを馳せた時、脳裏に、ある言葉が浮かんだ。「戦争ほど、残酷なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた・・・」伸一のペンが走った。数行ほど書いて、それを読み直してみた。気負いのない、率直な表現だと思った。”できた。できたぞ。これで、いこう!”冒頭が決まると、ペンは滑らかに走り始めた。(「衆望」の章、386~391ページ)

第9巻御書

御文

御文

おんや仕いを法華経ほけきょうとおぼしめせ(御書1165ページ、 檀越某御返事だんおつぼうごへんじ

通解

宮仕みやづかえを法華経ほけきょう修行しゅぎょうとおもいなさい。

小説の場面から

伝統的に、勤勉や努力は日本人の美徳とされてきたが、戦後は、そうした意識は、次第に薄れていった時期でもある。特に、人びとが、 資本家」と「労働者」といった対立意識を強くもつようになるにつれて、労働者の勤労意欲も、低下しがちであった。そのなかで、学会員は、仕事は、単に賃金を得るためためだけでなく、自分を磨き高める、”人間修行の場”であるという、仕事観、労働観を培っていった。それは、日蓮大聖人の「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」との御指南に基づく生き方であった。宮仕え、すなわち、自分の仕事を、法華経の修行であると思いなさいというのである。

仕事は”人間修行の場”

また、学会員として、職場で、なくてはならない人になり、信頼を勝ち得ていくために、「信心は一人前、仕事は三人前」というのが、第二代会長・戸田城聖の指導であった。日蓮仏法は、自他ともの幸福の実現をめざす教えであり、学会は、社会の繁栄と個人の幸福の一致を目的としてきた。創価の同志は、その実現のために、自分の仕事を通して、社会に貢献しよう、人格を磨こう、職場の勝利者になろうと、自ら、懸命に働いた。仏法者としての誇りと信念と哲学が、勤労の原動力となっていたのである。

(「衆望」の章、333~334ページ)

御文

悪王あくおう正法しょうほうやぶるに邪法じゃほう僧等そうら方人かたうどをなして智者ちしゃうしなはん時は師子王ししおうごとくなる心をもてる者必ものかならほとけになるべし(御書957ページ、 佐渡さど御書)

通解

悪王あくおう正法しょうほうやぶろうとする際、邪法じゃほう僧等そうら悪王あくおう味方みかたし、智者ちしゃほろぼそうとする時、師子王ししおうのような心を持つものかならほとけになることができる。

小説の場面から

〈1964年(昭和39年)、高等部が結成され、66年(同41年)は、「高等部の年」と定められた。この年の1月、山本伸一は自らの発案で、学会の後継者である高等部の代表に、全精魂を注いで御書講義を開始した〉「学会憎しの一点で、政治撃の牙をむいてくるにちがいない。しかし、たとえ、一人になっても、”師子王”のごとき心をもって、広布の使命を果たしていくのが本当の弟子です。戸田先生も、師の牧口先生亡きあと、ただ一人、広宣流布に立たれた。そえれが創価の精神であり、学会っ子の生き方です。その精神を失えば”烏合の衆”となってしまう。真実の団結というものは、臆病な人間のもたれ合いではない。一人立つ師子と師子との共戦です」

一人立つ創価の師子王ししおう

彼(山本伸一=編集部注)の講義には、側近の最高幹部に指導するかのような、厳しい響きがあった。(中略)「また、絶対に、”師子身中の虫”になってはならないし、諸君のなかから、”師子身中の虫”をわかし、、、てもならない。(中略)どうか、諸君は、創価学会の精神は、広宣流布に通ずる、清らかな精神であることを、生涯、忘れないでいただきたい。また、それを後輩に教えていてtいただきたい。ともあれ、広宣流布は、諸君に委ねます」

」(「鳳雛」の章、177~178ページ)

真剣勝負の戦い

ここにフォーカス「鳳雛」の章に、山本伸一が首都圏の高等部員会で、韓国の柳寛順ユクワンスンについて語る場面が描かれています。柳寛順は、日本の過酷な支配に対して、「独立万歳」を叫んで抗議し、「三・一独立運動」をリードした10代の女性です。梨花イファ学堂(梨花女子大学の前身)の学生だった彼女は、100年前の1919年、独立運動が起こり、学校が休校になったため、故郷に戻ります。そして独立運動の重要性を訴えて、村を回ります。村民は決起し、集会・デモが行われますが、鎮圧されてしまいます。柳寛順は逮捕され、獄中で命を落とすのです。しかし、信念に殉じた生き方は、”韓国のジャンヌ・ダルク”とたたえられています。伸一は部員会で、参加者に、柳寛順のような苦しい思いは、「絶対にさせません」と述べ、広布の途上における一切の労苦は、伸一自らが引き受けるという覚悟を披瀝。広布の活動とは「権力の魔性との厳しい戦いであり、人生をかけた、断じて負けられぬ、真剣勝負の戦いである」と訴えます。では、いかにして「真剣勝負の戦い」に臨むのか。それは、柳寛順が対話をもって、村民の心を目覚めさせていったように、「声の力」です。勇気の対話から、歓喜の万歳が轟く、人間勝利の新時代が開かれていくのです。

第9巻解説

紙面講座池田主任副会長


第9巻では、最初の「新時代」の章で、1964年(昭和39年)4月、戸田先生の七回忌法要で、山本伸一が小説『人間革命』の執筆開始を宣言する場面が描かれ、最後の「衆望」の章で、同年12月2日、沖縄の地で執筆を開始する場面がつづられています。「衆望」の章では、執筆を決意するにいたる、恩師との四つの思い出が記されています。最初は伸一が入会して3ヶ月が過ぎたころです。戸田城聖という、傑出した指導者を知った伸一の感動は、あまりにも大きかった」(384ページ)。この偉大な師の姿を後世に伝え抜かねばならない、との深い決意は、「師弟の尊き共戦の歴史を織り成していくなかで、不動の誓い」(同ページ)となっていきました。二つ目は、戸田先生が妙悟空のペンネームで執筆した、小説『人間革命』の原稿を見せられた時。三つ目は、恩師の故郷である北海道の厚田村(当時)を一緒に訪問した時です。最後は、57年(同32年)8月、戸田先生と共に長野の軽井沢でひとときを過ごしたことです。この8ヶ月後、戸田先生は逝去さえれます。恩師との四つの思い出は、伸一が19歳から29歳の時の出来事です。この10年間は、戸田先生のもとで、彼が真の「弟子の道」を学び、歩んだ日々でした。その間の「戸田から受けた数々の黄金不滅の指導は、むしろ、師の没後のための指標であり、規範である」(17ページ)と、伸一は『人間革命』の連載が、自分を苦しめることを覚悟していました。しかし、「偉大なる師の思想と真実を、自分が書き残していく」(393ページ)という使命感と喜びが、胸にたぎっていました。彼の「不動の誓い」があったからこそ、私たちは今、「創価の師弟の道」を学び、歩むことができるのです。

強き一念が智慧ちえ

「鳳雛」の章は、私自身の未来部時代の思い出と重なる場面が多くあります。私もそうですが、当時は学会2世の未来部員が多くなっている時でした。その中で、”いかに青年世代に信心の基本を教えていくか”は、大きな課題でした。当時の『青少年白色』には、少年犯罪が増加の一途をたどり、犯罪の低年齢化が指摘されています。そのような社会状況にあって、伸一は青少年育成の重要性を痛感し、「その模範を示していくことが学会の使命であり、これからの社会的な役割の一つ」(113ページ)であると考え、高等部・中等部の結成を提案したのです。彼は、「苗を植えなければ、木は育たない。(中略)手を打つべき時を逃してはならない。そして、最も心を砕き、力を注がなくてはならないのは、苗を植えた時です」(124ページ)と、未来を担う宝の人材への激励の手を、次々に打ちます。その一つ一つに、青年部のリーダーは驚き、「そうしたお考えは、どうすれば出てくるのでしょうか」(134ページ)と質問します。それに対して、伸一は「すべては真剣さだよ。私は、二十世紀のことを真剣に考えている。(中略)強き祈りの一念が智慧となり、それが、さまざまな発想となる。責任者とは、その一念の強さのことだ」(136ページ)と答えます。この一節に、未来部担当者のみならず、全リーダの根本姿勢があります。彼は高等部員に対して、「現在は、題目をしっかり唱え、あくまでも、勉学第一で進んでいく必要がある。また、両親に迷惑をかけたり、嘆かせるようなことがあってはならない」(154ページ)と、具体的に分かりやすく語り掛けます。また、「自ら大使命に生き抜いていこうという一念、努力がなければ、結果として、使命の芽は、出では来ない」(184ページ)と奮起を期待しています。未来を見据え、伸一は後継の人材人材に触発を与え続けます。いかに時代が変わろうとも、全身全霊で励ましてこそ、青年世代に信心が伝わっていくことを、心に刻みたいと思います。

「横」「たて」の広がり

「鳳雛」の章の最後に、「伸一が、『本門の時代』の出発に際し、高等部、中等部、少年部という、未来の人材の泉を堀ったことによって、創価後継の大河の流れが、一段と開かれ、二十一世紀への洋々たる水平線が見えてきたのである」(210ページ)とあります。また、未来部育成について、伸一は最高幹部に「今やっていることの意味は、三十年後、四十年後に明確になります」(125ページ)とも語っています。第9巻には、「本門の時代」の開幕に当たり、21世紀を展望し、未来部の結成をはじめ、新たな広宣流布の流れをつくるための、さまざまな出来事が描かれています。この第9巻の単行本が発刊されたのは、戸田先生の生誕101周年に当たる2001年2月11日です。つまり、21世紀に入って最初の発刊でした。当時、私たちは、「衆望」の章をはじめ、各章に記された仏法者の社会建設の使命を確認し合いながら、「平和と人道の連帯」の拡大を合言葉に、21世紀の広布の初戦にまい進しました。さらに、この年の5月3日から、学会は新たな目標として「第2の七つの鐘」を打ち鳴らし、創立100周年の2030年を目指して、前進を開始しました。「光彩」の章では、「広宣流布には、横と縦の二つの広がりが必要になります。友人から、また友人へ、仏法への理解の輪を広げていくのが横の広がりです。そして、子から孫へと、信心を伝え抜いていくことです」(236ページ)と記されています。創立100周年へ向け、友人や地域への学会理解という「横の広がり」と、青年世代の信心の継承という「縦の広がり」は、ますます重要です。また、同章には、「二十世紀は、『戦争と革命の世紀』といわれているが、同時に、人間革命の開幕の世紀となるだろう。いや、むしろ、人間革命の開幕の世紀ゆえに、二十世紀は、人類史上、最も輝かしい、生命の光彩の世紀への序曲として記録されつことになる」(288ページ)とあります。21世紀を「生命の光彩の世紀」にしていくのは、私たち一人一人です。その深き使命を担う喜びを胸に、自らの人間革命に挑み、「平和と人道の連帯」を広げていこうではありませんか。

名言集

思いやりの根本

思いやりの根本は、祈りです。人間は、自分の幸福を祈り、念じてくれている人には、必ず心を開くし、好感をもつものです。「新時代」の章、81ページ)

生き方の骨格く

豊かな心を培い、また、人間としての生き方の骨格をつくっていくのが信仰です。たから、若いうちから、信心することが大事になる。(「鳳雛」の章、119ページ)

使命の自覚

未来の使命を自覚した人は強い。その時、才能の芽は、急速に伸びるといってよい。(「鳳雛」の章、158ページ)

信心の継承

信心の継承こそが、広宣流布を永遠ならしめる道であり、一家、一族の永遠の繁栄の根本です。そして、その要諦が「一家和楽の信心」です。(「光彩」の章、236ペー ジ)

仏法のための労苦

仏法のために労苦したことは、全部、自分の大福運になります。だから、”大変だな”と思うことに出あうたびに、”これで、一つ福運を積めたな””また一つ、功徳の因をつくったな”と、考えていくことです。(「光彩」の章、241ページ)

真実の政治家

真実の政治家とは、民衆を支配するたねにいるのではない。民衆に奉仕し、民衆のために、命をかけて働く人です。(「衆望」の章、367ページ)