新・人間革命 第3巻

小説「新・人間革命」に学ぶ

今回の「世界広布の大動 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第3巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。次回の「名場面編」は12日付、「御書編」は19日付、「解説編」は26日付の予定。

第3巻基礎資料

物語の場面
1961年1月1日~2月14日

「仏法西還」の章

1961年の元旦、山本伸一は自宅で「元朝に 祈るアジアの 広布かな」と認め、妻の峯子に贈る。この1月には28日からの18日間、香港、セイロン(スリランカ)、インド、ビルマ(ミャンマー)、タイ、カンボジアへの平和旅を控えていた。学会本部での行われた初勤行の席上、「雲の井 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日を送らん」との戸田城聖の和歌が紹介された。翌2日、伸一は、その東洋広布を熱願していた戸田の墓前で、アジア初訪問の出発を報告する。アジア訪問の折、「仏法西還」の地であるインドのブッダガヤに、御書の「三大秘法抄」や、「東洋広布」の石碑などを埋納するため、同行のメンバーが準備に奔走する。伸一は渡航前の多忙な日々の中で、九州の3総支部合同の結成大会、両国支部、宇都宮支部、城西支部、都南支部、江戸川支部など、各地の支部結成大会を中心に指導に駆け巡る。1月28日、香港に降り立った伸一は、座談会で、海外ではアジア初の地区を結成。「香港を東洋の幸福の港にしていこう」との期待を寄せる。

〈1961年1月28日、山本伸一はアジアへの平和旅の第一歩を香港にしるした。翌29日、次の訪問地・セイロン(スリランカ)に向かう出発間際まで、同志に励ましを送る〉

広布の使命に行き抜け

(山本伸=編集部注)は

に言った。「まだ、香港にいるのは十数人の同志にすぎない。しかし、二、三十年もすれば、何万人もの同志が誕生するはずです。皆さんが、その歴史をつくるんです。一生は夢のようなものです。一瞬にして消えてしまう、一滴の露のように、はかないものかもしれな。しかし、その一滴の水も、集まれば川となって大地を潤すことができる。どうせ同じ一生なら、広宣流布という最高の使命に生き抜き、わが栄光の人生を飾ることです。そして、社会を潤し、永遠の幸福の楽園を築いていこうではありませんか。アメリカの同志も立ち上がりました。ブラジルの同志も立ち上がりました。今度は、香港の皆さんが、東洋の先駆けとして立ち上がる番です。私と一緒に戦いましょう!」(中略)やがて、飛行機は飛び立った。飛翔する機の窓に、そそり立つ褐色の岩肌の山が見えた。師子山(ライオン・ロック)である。今、香港の天地に、師子の子らが目覚め立った。だが、その力は、まだ、あまりにも小さかった。しかし、いつの日か香港は、新しき東洋の世紀を開く広布の大師子となることを、伸一は確信することができた。(「仏法西還」の章、79ページ~81ページ)

「月氏」の章

香港を発ち、伸一は同行の幹部に、近い将来、アジアに総支部をつくりたいとの考えを打ち明ける。戸惑う幹部に対し、「まず構想を描く。そして、そこから現実をどう開いていくかを考えていくんだ」と、現状追随的な意識を打破することを訴える。シンガポールを経由し、セイロンへ。そこでは、一人の青年を激励し、男子部の隊長に任命する。いよいよインドに到着した一行は、イスラム王朝のクトゥブの塔や、デリー城などを視察。マハトマ・ガンジーを荼毘に付したラージ・ガートに立ち寄り、インドを独立に導いた非暴力の闘争に思いを巡らす。また、アショーカ大王の法勅を刻んだ石柱の下では、仏法の根底にした政治について語り合う。タージ・マハルやアグラ城などを巡り、2月4日、ブッダガヤに入る。管理委員会の許可を得て、大菩提寺の境内に、「東洋広布」の石碑や「三大秘法抄」など埋納する。戸田に誓った東洋広布へ、第一歩を踏み出した伸一は、仏教発祥のインド地で、〝出でよ! 幾万、幾十万の山本伸一よ〟と心で叫ぶ。

〈61年2月4日、釈尊成道の地ブッダガヤで、「東洋広布」の石碑などを埋納する儀式を行う〉

出でよ!幾十万の山本伸一

氏の天地に、朗々たる唱題の声が響き渡った。山本伸一は、東洋広布の民衆の平和と幸福を誓い念じながら、深い祈りを捧げた。埋納の儀式は、やがて、滞りなく終わった。(中略)今ここに、仏法西還の先駆けの金字塔が打ち立てられた。伸一は、戸田城聖を思い浮かべた。〝雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん〟この歌さながらに、空には太陽が輝き、そびえ立つ大塔を照らし出していた。彼は、師・戸田城聖への東洋広布の誓願を果たす、第一歩を踏み出しのである。アジアに広宣流布という真実の幸福と平和が訪れ、埋納した品々を掘り出す日がいつになるのかは、伸一にも計りかねた。しかし、それはひとえに彼の双肩にかかっていた。‶私はやる。断じてやる。私が道半ば道半ばに倒れるならば、わが分身たる青年に託す。出でよ!幾万、幾十万の山本伸一よ〟月氏の太陽を仰ぎながら、彼は心で叫んだ。(「月氏」の章、161ページ~163ページ)

「仏陀」の章

埋納を終えた一行は、大菩提寺の周辺を散策。釈尊ゆかりの場所を訪ねた伸一は、人類を生命の光で照らした、その生涯に思いをはせる。釈迦族の王子として生まれた釈尊は、生後間もなく母を亡くす。万人が避けることのできない老・病・死の問題を解決するため、彼は王家の生活を捨て、出家の道に進む。禅定や苦行に励むが悟りを得られなかった釈尊は、尼連禅河を渡り、菩提樹の下で深い瞑想に入り、思念を凝らす。次々と襲う欲望への執着、飢え、眠気、恐怖、疑惑と戦い、無限の大宇宙と自己との合一を感じながら、感動のなかに、永遠不変の真理である「生命の法」を覚知。ついに大悟を得て、仏陀をなる。彼は、悟った法を説くべきか否か 悩み苦しんだ末に、民衆の中に入って法を説くことを決意する。六師外道たちからの迫害にも、提婆達多の反逆にも屈せず、愛弟子の舎利弗、目連との死別の悲しみをも乗り越え、最後の一瞬まで人々を教化した。伸一は、その生涯を思い、自らも命の燃え尽きる時まで、わが使命の旅路をゆくことを誓う。

〈1961年1月28日、山本伸一はアジアへの平和旅の第一歩を香港にしるした。翌29日、次の訪問地・セイロン(スリランカ)に向かう出発間際まで、同志に励ましを送る〉

釈尊が「生命の法」を会得

つしか、明け方近くになっていた。東の空に明けの明星が輝き始めた。その瞬間であった。無数の光の矢が降り注ぐように、釈尊の英知は、胸に電撃が走るのを覚えた。体は感動に打ち震え、頬は紅潮し、目には涙があふれた。〝これだ、これだ!〟この刹那、この一瞬、釈尊は大悟を得た。遂に仏陀となったのだ。彼の生命の扉は、宇宙に開かれ、いっさいの迷いから解き放たれて、「生命の法」のうえを自在に遊戯している自身を感じた。この世に生を受けて初めて味わう境地であった。釈尊は知ったのだ。--大宇宙も、時々刻々と、変化と生成のリズムを刻んでいる。人間もまた同じである。幼き人も、いつかは老い、やがて死に、また生まれ変われる。いな、社会も自然も、ひとときとして精止していることはない。その流転しゆく万物万象は、必ず何かを縁として生じ、滅していく。なに一つ単独では成り立たず、すべては、空間的にも、時間的にも、連関し合い、「縁りて起こる」のである。そして、それぞらが互いに「因」となり、「縁」ともなり、しかも、それらを貫きゆく「生命の法」がある。釈尊は、その不可思議な生命の実体を会得したのであった。彼は、自身が、今、体得した法によって、無限に人生を開きゆくことが確信できた。(中略)彼方には、朝靄を払い、まばゆい朝の太陽がのぼろうとしていた。それは、人類の幸福と平和の夜明けの暁光にほかならなかった。(「仏陀」の章、181ページ~183ページ)

「平和の光」の章

ガンジス川を訪れた伸一は、居合わせた身なりの貧しい子どもたちとの交流を通して、世界各地の繁栄と平和を念じた戸田の意思を継ぐ、自身の使命と責任の重さを感じる。その後、寺院や博物館等を見学した一行は2月7日、8日間滞在したインドを離れ、ビルマへと向かう。伸一は、ビルマで戦死した長兄をしのびつつ、日本人墓地で戦没者の追善法要を行う。彼の胸には、長兄との思い出が次々と去来する。割れた母の鏡の破片を大切に分け合ったこと。出兵先から一時帰国した兄が、憤懣やるかたない様子で戦争の悲惨さを訴えること。その兄の戦死の報を受け、背中を震わせながら母が泣いていたことーー。戦没者の冥福を願う祈りは、恒久平和への強い誓いとなっていた。その後、一行は、タイ、カンボジアを訪問。アジア各地で日本軍による戦争の傷跡を目にした伸一は、一人の日本人として、「幸福の道」「平和の道」を開いていこうと決意する。東洋の哲学・文化・民族の研究機関や、音楽などの交流を目的とした団体の設立を構想。一切の行程を終え、2月14日、帰国の途に就く。

発展の源泉は〝励まし〟に

テルには、戸田城聖が、生前、懇意にしていた事業家が宿泊していた。伸一もよく知っている人物であった。夜更けて、この事業家が、伸一の部屋を訪ねて来た。二人の話題は、戸田の思い出になっていった。「山本さん、戸田さんのすばらしいところは、学会を組織したことではないだろうか。そうしなければ、学会はここまで発展しなかったと、私は思う。これからは組織の時代だ。組織があるところは伸びる」伸一は言った。「一面では確かにその通りかもしれませんが、それだけではないと思います。組織ならどこにでもあります。会社も、組合も、すべて組織です。そして、組織化すれば、うまくいくかといえば、逆の面もあります。組織は整えば整うほど硬直化しますし、官僚化していくものです。(中略)戸田先生の偉大さは、その組織を常に活性化させ、人間の温かい血を通わせ続けたことだと思います。具体的にいえば、会員一人ひとりへの励ましであり、指導です。(中略)苦悩をかかえて、死をも考えているような時に、激励され、信心によって立ち上がることができたという事実--これこそが学会の発展の源泉です。同志が戸田先生を敬愛したのは、先生が会長であったからではありません。先生によって、人生を切り開くことができた、幸福になれたという体験と実感が、皆に深い尊敬の念をいだかせていたんです」(「平和の光」の章、264ページ~266ページ)

雛人形の思い出

の芯の強さを物語る、こんな思い出がある。--戦争末期のことだ。蒲田の糀谷にあった家が、空襲による類焼を防ぐために取り壊しが決まり、強制疎開させられることになった。やむなく、近くの親戚の家に一棟を建て増して、移ることにした。家具も運び込み、明日から皆で生活を始めることになった時、空襲にあった。その家も焼夷弾の直撃を受け、全焼してしまった。かろうじて家から持ち出すことができたのは、長持一つだった。翌朝、途方に暮れながら、皆で焼け跡を片付けた。生活に必要な物は、すべて灰になってしまった。ただ一つ残った長持に家族は期待の目を向けた。しかし、長持を開けると、皆、言葉を失ってしまった。中から出てきたのは雛人形であった。その端に、申し訳なさそうに、一本のコウモリ傘が入っているだけであった。長持を、燃え盛る火のなかから、必死になって運びだしたのは、伸一と弟である。伸一は全身の力が抜けていく思いがした。家族の誰もが、恨めしそういな顔で、虚ろな視線を雛人形に注いだ。その時、母が言った。「このお雛様が飾れるような家に、また、きっと住めるようになるよ・・・」母も、がっかりしていたはずである。しかし、努めて明るく語る母の強さに励まされ、家族の誰もが、勇気が湧くのを覚えた。焼け跡に一家の笑い声が響いた。母の胸には、〝負けるものか!〟という、強い闘志が 燃えていたにちがいない。(「平和の光」の章、292ページ~293ページ)

第3巻御書

御文

御文

月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり(御書588ページ、諌暁八幡抄)

御文

月は西から出て東へ向かう。それは月氏の仏法が東の方へ流布する相である。日は東から出る。日本の仏法が月氏国に還るとうい瑞相である。

小説の場面から

〈1961年1月、山本伸一はアジア歴訪の旅へ。恩師・戸田城聖の悲願である「東洋広布」の第一歩をしるす〉
「諌暁八幡抄」のほか、「顕仏未来記」などにも、いずれも、日蓮大聖人の仏法の西還を予言され、東洋、世界への広宣流布を示されたものである。戸田城聖は、その御聖訓の実現を、創価学会の使命として、伸一をはじめとする青年たちに託した。もしも、創価学会がなければ、この仏法西還元の御本仏の御予言も、虚妄となってしまったにちがいない。その先駆けの歩みを、伸一は会長に就任して迎えた新しき年の初めに、踏みだそうとしていたのである。それは仏法の歴史を画し、東洋に生命の世紀の旭日を告げるものであった。(「仏法西還」の章、30ページ)

大聖人の御遺命を学会が実現

「大聖人の御予言も、それを成し遂げようとする人がいなければ、観念になってしいます。広宣流布は、ただ待ってればできると考えるのは誤りであると思います。御予言の実現は、後世の人間の決意と大確信と必死の行動が根本となります。御予言とは、弟子の自覚としては、そう”なる”のではなく。そう”する”ことではないでしょうか。そうでなければ、人間の戦いはなくなってしまいます。また、そのようにとらえて戦いを起こしたものにとっては、御予言は、最大の確信となり、勇気となり、力となります」(「月氏」の章、102ページ)

御文

一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり(御書790ページ、御義口伝)

御文

一念に億劫の辛労を尽して、自行化他にわたる実践に励んでいくなら、本来わが身に具わっている仏の生命が瞬間瞬間に現れてくる。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行である。

小説の場面から

〈アジアの平和旅の終盤、疲れをにじませる同行の幹部に、山本伸一は御書をひもとき、励ましを送る〉
伸一は、力を込めて語っていった。「これは、南無妙法蓮華経と唱えるわが一念に、億劫にもわたる辛苦、労苦を尽くし、仏道修行に励んでいくならば、本来、自身のもっている無作三身の仏の生命が、瞬間、瞬間、起こってくるとの御指南です。そして、南無妙法蓮華経と唱えていくこと自体が、精進行であるとの仰せです。この御文は、御本仏である大聖人の御境涯を述べられたものですが、私たちに即していえば、広宣流布のために苦労し、祈り抜いていくならば、仏の智慧が、大生命力がわいてこないわけはないということです。したがって、どんな行き詰まりも打ち破り、大勝利を得ることができる。

一瞬一瞬を”命を削る思い”で

しかし、それには精進を怠ってはならない。常に人一倍、苦労を重ね、悩み考え、戦い抜いていくことです。皆、長い旅の疲れが出ているかもしれないが、今回の旅は、東洋広布の夜明けを告げる大切なアジア指導です。一人でもメンバーがいたら、命を削る思いで力の限り励ますことだ。そこから未来が開かれる。また、各地を視察しながらも、その国の広布のめに、何が必要かを真剣に考えていかねばならない。ボーッとしていれば、この旅は終わってしまう。一瞬一瞬が勝負です」(「平和の光」の章、314~315ページ)(「月氏」の章、102ページ)

仏法の生死観

ここにフォーカス『新・人間革命』第3巻「仏法西還」の章が始まったのは、1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生し、6434人もの生命が奪われました。震災後、2月2日付の「仏法西還」の章から、山本伸一が仏法の生死観を語る場面がつづられていきます。その中で、伸一はこう述べています。「広宣のために、仏の使いとして行動し抜いた人は、いかなる状況のなかで亡くなったとしても、恐怖と苦悩の底に沈み、地獄の苦を受けることは絶対にない」「信心を全うし、成仏した人は、死んでも、すぐに御本尊のもとに人間として生まれ、引き続き歓喜のなか、広宣流布に生きることができる」東に伸び、東に傾いた樹木が、倒れるときには東に倒れるように、信心に励んできた人は、事故等で不慮の死を遂げても、善処に生まれるというのが、仏法の法理なのです。95年2月2日は、海外での諸行事を終えた池田先生が、関西を訪問した日です。4日の追善勤行法要で、先生は「悪い象に殺された場合は地獄等に墜ちない。悪知識に殺された場合は地獄等に墜ちる」との経文を通し、「震災等で亡くなられた場合も、悪象による場合と同じく、絶対に地獄に落ちない」と渾身の励ましを送りました。先生の激励と小説に記された仏法の生死観は、大切な人を失った方々の心に、大きな希望をともしたのです。

第3巻解説

紙面講座池田主任副会長


「東洋広布」ーーそれは、日蓮大聖人の「仏法西還(=末法には、太陽が東から西に向かうように、大聖人の仏法が日本からインドに還り、全世界へと流布していく)」の原理を踏まえ、戸田城聖先生が山本伸一をはじめ、後継の青年たちに託した願業でした。『新・人間革命』第3巻を学ぶにあたって、まず仏法西還の意味について確信していきた。
1951年(昭和26年)7月11日、男子部結成式の折、戸田先生はこう語られました。「広宣流布は、私の絶対にやり遂げねばならぬ使命であります。(中略)日蓮大聖人は、朝鮮、中国、遠くインドにとどまることなく、全世界の果てまで、この大白法を伝えよ、との御命令であります」(42ページ)この戸田先生の東洋広布の決意を詠んだのだが、「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」との和歌でした。師の決意は、山本伸一の誓願となりました。男子部結成から10年後の61年(同36年)1月、伸一はアジア初訪問の旅に出発します。その意義こそ、「大聖人の御予言である、‶仏法西還〟の第一歩を印し、東洋の幸福と恒久平和への道を開くこと」(29ページ)にありました。同年2月4日、インドの ブッダガヤに「東洋広布」と刻まれた石碑などを埋納する儀式が行われました。この時、伸一の胸にこだましたのが、先の戸田先生が詠んだ和歌でした。東洋広布の第一歩を踏み出した伸一は、心の中で叫びます。「私はやる。断じてやる。私が道半ばに倒れるならば、わが分身たる青年に託す。出でよ!幾万、幾十万の山本伸一よ」(162ページ)と。つまり、「仏法西還」の章には、①大聖人の御予言②戸田先生が東洋広布を誓う③師の誓いを弟子・伸一が受け継ぐ④分身たる‶幾万、幾十万の山本伸一〟に託していく、との方程式が記されています。私たちは、池田先生から新時代の広布を託された深き使命がることを心に刻みたいと思います。

地涌の使命の自覚

第3巻では、広宣流布における「時」の捉え方が示されています。「月氏」の章で、伸一は「御予言の実現は、後世の人間の決意と大確信と必死の行動が根本となります。御予言とは、弟子の自覚としては、そう‶なる〟のではなく、そう‶する〟ことではないでしょうか」(102ページ)と述べています。広宣流布の「時」とは、ただ待っているだけでは決して来ない。地涌の使命に立った弟子の決意と行動によって「時」は創られるのです。また、第3巻には、広宣推進の方法についてもつづられています。「平和の光」の章に、タイで迎えてくれた2人の日本人メンバーの壮年との語らいを通して、「学会の広宣流布は、国力をバックにしての布教でもなければ、宣教師を送り込んでの布教でもない。その地に生きる力人が信仰に目覚め、使命を自覚するところから始まる、民衆の内発性に基づいている」(313ページ)とあります。皆が使命に奮い立つように、伸一は全力を注ぎました。その象徴的な場面の一つが、香港の岡郁代への励ましです。彼女は①夫が未入会②子どもが3人いる、という状況の中で信心に励んでいました。伸一は彼女に、「自分の家族の折伏は、理論ではなく、実証がことのほか大切になる。特に人間的な成長が肝要です」(78ページ)と励ましを送ります。彼女の子どもには、「 あなたが、香港に来たのは、お父さんの仕事の関係で、たまたま来たのではない。その広宣流布の使命を果たすために来たんです」(72ページ)と、未来を見据え、使命の自覚を促しています。伸一がアジアの平和旅で最初に訪問した香港は、20世紀最後の海外訪問地でもあります(2000年12月)。『新・人間革命』第30巻(下巻)の「誓願」の章に、香港初訪問の思い出をたどり、21世紀の東洋広布の道が洋々と開かれいることが記されています。伸一の心をわが心とする同志の奮闘によって、わずか40年ほどで香港広布は飛躍的に発展したのです。

学会の根本目的

「月氏」の章の中では、インドのアショーカ大王の政治について触れられています。そこでは、大王が仏教を国教化しなかった理由として、「思想や信教の『自由』を守ろうとしたかではないか」「宗教戦争を避けようと考えたからではないだろうか」(130ページ)と考察しています。ここで、「創価学会は、永遠に『信教の自由』を守り抜かねばなりません」(131ページ)とあるように、「信教の自由」をはじめ、基本的人権を抑圧する暴挙とは、徹底して言論で戦い抜く。それが、学会の社会的使命です。また「仏陀」の章では、釈尊の迫害の人生が詳細に描かれています。釈尊は、六師外道からほ迫害、提婆達多の反逆にも屈せず、最後まで人々に法を説いていきます。その中「信仰によって結ばれた人間の絆は、利害によるもではなく、『信頼』を基本にした良心の結合である」(211ページ)とあります。この「信頼」を破壊するための常套手段がスキャンダルです。釈尊が受けた「九横の大難」にも、スキャンダルがありました。下劣なデマを捏造し、人々に不信をいだかせるとという手段はいつの世も変わりません。この「仏陀」の章の連載が聖教新聞で始まったのは1995年4月からでしたが、直前の3月、オウム真理教による地下サリン事件が起きています。この事件をきっかけに、宗教に対する統制を強めようとする社会的な動きが出てきます。それは後に、宗教法人法改変へとつながっていきました。「仏陀」の章は、当時、卑劣なデマ中傷にさらされていた学会員への励ましであったと同時に、迫害の構図を後世にとどめようとされたのだと思えてなりません。「平和の光」の章では、仏法者の使命について、こうつづられています。「本来、仏法者の宗教的使命は、人間としての社会的使命を成し遂げていくことで完成される。それができてこそ、生きた宗教です。仏法は観念ではない。現実のなかで、人間の勝利旗を打ち立てていくのが、まこのと信仰です」(318ページ)創価学会の根本目的は立正安国、すなわち社会の繁栄と人類の平和の実現にあります。私たちは、友好の語らいを朗らかに広げ、地域に幸福のスクラムを築いて行きましょう。>/p?

名言集

まことの功労者

人りの人が成長し、人財に育っていく陰には、親身になって、育成してくれた先輩が必ずいるものだ。たとえ、光があたることはなくとも、その先輩こそが、 まことの功労者であり、三世にわたる無量の功徳、福運を積んでいることは間違いない(「仏法西還」の章、55ページ)

正しい認識を促す直道

地道なようでも、一対一の深き誠実な語らいこそが、詮ずるところ、学会への正しい認識と評価をもたらす直道だ。(「月氏」の章、129ページ)

真の戒律

真の戒律とは、「自分の外」に設けられるものでははく、「自分の内」に育まれるものでなければならない。 「仏教の精神は、外からの強靭による「他律」ではなく、「自律」にこそあるからだ。(「仏陀」の章、229ページ)

師の生命の脈動

師を求め、師とともに戦おうとする時、広宣流布に生きる、師の生命の脈動が流れ通うといってよい。(「平和の光」の章、325ページ~326ページ)