新・人間革命 第12巻

小説「新・人間革命」に学ぶ

今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第12巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。次回の「名場面編」は9日付、「御書編」は16日付、「解説編」は23日付の予定。

第12巻基礎資料

物語の時期 1967年(昭和42年)5月3日~1969年7月17日

「新緑」の章

1967年(昭和42年)5月3日、山本伸一の会長就任7周年となる本部幹部会が、日大講堂で開催される。席上、彼は、当時の社会が抱える「人間疎外」の問題を鋭く分析し、日蓮仏法こそが、新たな精神文明を開きゆく力であると訴えた。総会を終えた伸一は、13日、アメリカ、ヨーロッパ歴訪の旅に出発する。座談会に集ったのは三十数人にすぎなかった。しかし、今やメンバーは拠点に発展していた。15日、一行はロサンゼルスへ。アメリカを総合本部とすることを発表。17日、ニューヨークを訪れ、ダンサーなど、芸術家を志す青年たちを激励する。20日には、フランス・パリ郊外のヌイイに誕生したパリ会館の入仏式に出席。皆が一人立ち、その一人一人の勝利があると指導する。さらに、イタリア、スイス、オランダと回り、各地で「新緑」のような、希望あふれる青年たちを全力で励まし続ける。
〈1974年(昭和49年)3月、山本伸一は北・南米を訪問。派遣幹部も手分けして中・南米各国を回り、開拓の苦闘を重ねてきた現地の会員を激励する〉   一の声であった。(中略)「辛いだろう。悲しいだろう。悔しいだろう・・・。しかし、これも、すべて御仏意だ。きっと何が大きな意味があるはずだよ。勝った時に、成功した時に、未来の敗北と失敗の因をつくることもある。負けた、失敗したという時に、未来の永遠の大勝利の因をつくることもある。ブラジルは、今こそ立ち上がり、これを大発展、大飛躍の因にして、大前進を開始していくことだ。また、そうしていけるのが信心の一念なんだ。長い目で見れば、苦労しとところ、呻吟したところでは、必ず強くなる。それが仏法の原理だよ。今回は、だめでも、いつか、必ず、私は激励に行くからね」(「僥倖」の章、81~82ページ) 〈ブラジルの友は悔しさをバネに、祈りに祈り、地域に信頼と友情の連帯を広げた。そして、84年(同59年)2月、当時の大統領の招聘により、ついに伸一の訪問が実現する〉

ブラジルに轟く歓喜の掛け声

一がサンパウロ市にある州立総合スポーツセンターのイブラプエラ体育館に姿を見せると、大歓声があがり、大拍手が轟いた。皆、この出会いを、待ちに待っていたのだ。伸一は、両手を掲げながら、中央の広い円形舞台を一周したあと、万感の思いを込めてマイクを握った。「十八年ぶりに、尊い仏の使いであられるわが友と、このように晴れがましくお会いできて、本当に嬉しい。(中略)しかし、これまでに、どれほどの苦労と、たくましき前進と、美しい心と心の連帯があったことか。私は、お一人お一人を抱擁し、握手する思いで、感謝を込め、涙をもって、皆さんを賞讃したいのであります。」(中略)大地を揺るがさんばかりの歓声と拍手が起こり、やがて、あの意気盛んな、歓喜と誓いのかけ声がこだました。「エ・ピケ、エ・ピケ、エ・ピケ、ピケ、ピケ。エ・オラ、エ・オラ、エ・オラ、オラ、オラ…」皆、目を赤く腫らしながら、声を限りに叫んだ。(「僥倖」の章、103~104ページ)

「愛郷」の章

伸一は、アメリカ、ヨーロッパ訪問から帰ると、休む間もなく大阪や滋賀県の彦根など、各地を回り、6月23日に、長崎県の松代へ向かう。松代では、2年前の1965年(昭和40年)8月から群発地震が続いていた。伸一は、その年の11月、激励に向かう派遣幹部に”松代の同志には、強い「愛郷」の心で、住民の依怙依託となって地域を守り抜いてほしい”との思いを語る。同志は、わが地域を寂光土に変えようと誓い、決意をと弘教に立つ。また、松代の幹部は、大きな地震の後には、自主的に会員の家へ、安否確認と、激励に回る。この励ましのネットワークは、やがて会員だけでなく、自然に地域の友へと広がっていった。そして、67年(同42年)6月、松代会館を訪れた伸一は、苦難に負けず、模範の国土、組織を築こうと訴える。7月には、九州、中部、東北を回り、8月には、兵庫、福井、富山を訪問。15日は、岐阜・高山市に。伸一は、江戸時代、悪政に抗して農民が決起した、この飛騨の地、「幸福の花園」を、「人間共和の故郷」を築いてほしいと期待を述べる。
〈1974年(昭和49年)3月、山本伸一は北・南米を訪問。派遣幹部も手分けして中・南米各国を回り、開拓の苦闘を重ねてきた現地の会員を激励する〉   原たちは、(パラグアイで=編集部注)懸命に御本尊の功力を、信心の大確信を訴えた。確信と揺らぐ心との真剣勝負であった。三歳ぐらいの男の子を抱えた老婦人が尋ねた。「この子は孫ですが、生まれつき目が見えないんです。信心のを頑張れば、この子の目も、見えるようになりますか」老婦人に一家は、移住地の人たちに、仏法のすばらしさを訴え、布教に励んできた。ところが、目の不自由な子供が生まれたことから、「なんで学会員が、そんなことになるんだ」と、批判を浴びせられていたのである。(中略)悲嘆に暮れ果てての質問であった。皆、黙り込んで、清原の言葉を待った。彼女は断言した。「明確なことが一つだけあります。それは、強情に信心を貫いていくならば、絶対に、幸福になれるということです。このお子さんが、生涯、信心を貫けるように、育ててください。信心をして生まれてきた子どもに、使命のない人はいません。その使命を自覚するならば、必ず最高の人生を送ることができます」この指導が、世間に引け目を感じ、信心に一抹の不安をいだいていた、この家族の心の闇を、打ち破ったのである。

信心は立場や役職ではない

清原に指導を受けてからというもの、老婦人は、目の不自由な孫が、家の宝だと思えるようになった。そして、家族も、その子どもの幸せを願い、真剣に信心に励み、団結が生まれていったのである。(中略)木々の生い茂る道を、マイクロバスに揺られながら派遣幹部たちは思った。”もし、自分たちがこの環境のなかに、ただ一人置かれたならば、本当に信心を貫いていけただろうか。皆に指導はしてきたが、学ぶべきは自分たちの方ではないのか・・・”信心とは、立場や役職で決まるものではない。広宣流布のために、いかなる戦いを起こして、実際に何を成し遂げてきたのかである。(「開墾」の章、178~182ページ)

「天舞」の章

9月1日、東京・信濃町に創価文化会館が開館する。続いて関西にも文化会館が完成。それは、仏法を基調に、平和と文化を推進する創価学会を象徴するものとなる。伸一は、この年、全国を回りながら、四国には「楽土建設の革命児たれ」、九州には「つねに先駆の九州たれ」など、各方面にモットーを示していった。10月15日には、東京文化祭が国立競技場で開催される。舞い行く赤鷲など、千変万化する人文字や、歓喜のダンスが繰り広げられた。出演者の一人一人に、自己の壁に挑み、限界を打ち破る勝利のドラマがあった。天を舞うがごとき、青春乱舞の舞台であった。大成功の陰には、人文字の下絵や各演目の振り付け等に献身する人の支えがあった。文化祭終了後、伸一は真っ先に、会場の外で黙々と整理や清掃に取り組む青年たちに感謝の言葉をかける。30日、伸一は「ヨーロッパ統合の父」クーデンホーフ・カレルギー伯爵と会見。人類の恒久平和実現を願う2人は、深く共鳴し合う。後年、この対談は、対談集『文明・西と東』として結実する。
〈9月18日、阪神甲子園球場で「関西文化祭」が行われた。台風の影響による雨のため、鼓笛隊のジュニア隊の出場は見送られた〉  

学会子は負けたらあかん

女たちが、出場がなくなったことを知ったのは、白と黄色のユニフォームを着込み、今か今かと、開演を待っていた時であった。(中略)「今回はジュニア隊の出場はなくなりました」(中略)こう聞かされると、皆、声をあげて泣き出した。”文化祭で山本先生に見ていただくんや!”と、小さな胸に闘志を燃やし、夏休みを返上して、来る日も来る日も、炎天下で練習を重ねてきたのだ。それなのに文化祭に出ることができなくなったと思うと、悔しくて、悲しくて仕方なかったのである。ジュニア隊の責任者で女子部の幹部の吉倉稲子にも、少女たちの悔しい気持ちはよくわかった。(中略)しかし、彼女は、心のを鬼にして、泣きじゃくる少女たちに、あえて、厳しい口調で言った。「学会子は、何があっても、絶対に泣くもんやない!みんな、山本先生の弟子やろ!師子の子やろ!先生は、泣き虫は大嫌いなはずや!」ジュニア隊の少女たちが泣いていた顔を上げた。彼女は、それから、諄々と諭すように訴えた。「今日、皆さんの出場を中止にしたんは、皆さんが学会の宝やからです。絶対に、風邪なんかひかせるわけにはいかんからです(中略)皆さんのことを、一番、心配されているのは、山本先生です。今のみんなの悔しい気持ちも、よくご存じやと思います。残念で仕方ない気持ちはようわかりますが、先生に『私たちは大丈夫です』言うて、ご安心していただいてこそ、鼓笛隊やないでしょうか・・・」(中略)吉倉は、涙ぐむ一人の少女の傍らに行き、腰をかがめて、ハンカチで涙を拭いてあげた。そして、肩に手をかけ、体をゆすりながら言った。「悔しいやろうけど、頑張るんや!これも、文化祭の戦いや!あんたは、絶対に弱虫やない!」泣いていた少女は、コクリと頷いた。(「常勝」の章、246~248ページ)

「栄光」の章

1968年(昭和43年)「栄光の年」は、伸一の詩「栄光への門出に」とともにスタートした。4月8日、東京・小平市の創価学園(中学校・高等学校)では、待望の第1回入学式が行われた。創立者の伸一は開校に先立って、「真理を求める、価値を創造する、英知と情熱の人たれ」など、五つの指針を贈った。創価教育を実践する学校の設立は、牧口常三郎初代会長から弟子の戸田城聖に、さらに、戸田から伸一に託された構想であった。伸一は、入学式当日、式典後に学園を訪れ、「英知 栄光 情熱」のモットーが刻まれた碑の除幕式に臨んだ。生徒と共に「栄光橋」を渡り、また、記念のカメラにも納まった。その後も、彼は学園に幾度も足を運ぶ。親元を離れて暮らす寮生の代表とも懇談し、皆をわが子のごとく激励する。伸一の慈愛に包まれ、生徒たちは大きく成長していく。やがて、大学、幼稚園、小学校と、創価一貫教育が完成。また、アメリカ創価大学をはじめ、創価教育の園は、海外にも広がり、卒業生は、全世界を舞台に、社会貢献の実証を示していくのである。
〈1967年(昭和42年)4月22日、山本伸一は新潟を訪問。佐渡の地での日蓮大聖人の闘争に思いをめぐらせた〉  

難の時こそ師子王の心で進め

蓮は、佐渡に流されてからも、弟子たちのことが頭から離れなかった。竜の口の法難以来、弾圧の過酷さ、恐ろしさから、退転したり、法門への確信が揺らぎ始めた弟子たちが、少なくなかったからである。(中略)弟子のなかには、日蓮に批判の矛先を向ける者もいた。「日蓮御房は師匠ではあられるが、その弘教はあまりにも剛直で妥協がない。我等は柔らかに法を弘めよう」と言うのである。もっともらしい言い方をしてはいるが、その本質は臆病にある。しかし、その臆病な心と戦おうとはせず、弘教の方法に問題をすり替えて師匠を批判し、弟子としての戦いの放棄を正当化しようというのだ。堕落し、退転しゆく者が必ず用いる手法である。佐渡で認めた御書には、弟子の惰弱さを打ち破り、まことの信心を教えんとする、日蓮の厳父のごとき気迫と慈愛が脈打っている。曰く「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(御書232ページ)と。天も捨てよ、難にいくら遭おうが問題ではない、ただ身命をなげうって広宣流布に邁進するのみであるとの、日蓮の決意を記した、「開目抄」の一節である。それは、諸天の加護や安穏を願って、一喜一憂していた弟子たちの信仰観を砕き、真実の「信心の眼」と「境涯」を開かせんとする魂の叫びであった。(中略)さらに、「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人なして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(同957ページ)と。法難の時こそ”師子王”となって戦え、そこに成仏があるとの指導である。(中略)そして、自分を迫害した者たちに対しても、彼らがいなければ「法華経の行者」にはなれなかったと、喜びをもって述べているのである。これこそ、最大の「マイナス」を最大の「プラス」へと転じ、最高の価値を創造しゆく、大逆転の発想であり、人間の生き方を根本から変えゆく、創造の哲学といえよう。(「躍進」の章、394~397ページ)

第12巻御書

御文

御文

さきざきよりも百千万億倍・御用心おくばいごようじんあるべし(御書1169ページ、 四条金吾殿御返事しじょうきんごどのごへんじ
通解
以前よりも百千万億倍おくばい用心ようじんしていきなさい。
小説の場面から 〈ヨーロッパの中心者である川崎鋭治は、車の運転で事故を起しています〉 事故には必ず予兆があるものだ。川崎鋭治は、以前、雨のなかでハンドルを切り損ねて、大きな石に乗り上げ、車が転倒するという事故を起していた。この時は、怪我はなかったものの、車は廃車にせざるをえなかった。その直後、日本に来た川崎鋭治から話しを聞いた山本伸一は、こう指導した。

原則の順守が事故を防ぐ

「これは、さらに大きな事故の前兆と受け止めるべきです。リーダーというのは、神経を研ぎ澄まし、一つの事故を戒めとして、敏感に対処していかなくてはならない。そうすれば、大事故を未然に防げる。これからは、もう交通事故など、二度と起こすものかと決めて、真剣に唱題し、徹して安全運転のための原則を守り抜くことです。また、疲労や睡眠不足も、交通事故を引き起こす大きな原因になる。だから、常にベストコンディションで運転できるように、工夫しなければならない。それば、ドライバーの義務です。(中略)運転しながら話しをして、脇見をするようなことがあっては、絶対にならない。それから、幹部は、自分だけではなく、会合が終わったあとなどに、無事故と安全運転を呼びかけていくことも大事です。その一言が、注意を喚起し、事故を未然に防ぐ力になる」(「新緑」の章、52~53ページ)

御文

今日蓮等いまにちれんらたぐい南無妙法蓮華経ととな たてまつもの住処じゅうしょ 山谷曠野皆寂光土せんごくこうやみなじゃっこうどなり(御書781ページ、 御義口伝おんぎくでん
通解
いま南無妙法蓮華経と唱える日蓮とその門下の住所は、それが山であり、谷であり、広野であっても、すべて寂光土である。
小説の場面から 〈1967年(昭和42年)8月、山本伸一は岐阜・高山市を訪問。同志は郷土の発展を祈り、地域に尽くしていた〉村(町)おこしや地域の活性化は、どこでも切実な問題であるが、特に過疎の村や山間の地などにとっては、存亡をかけた大テーマであろう。だが、住民が、その地に失望し、あきらめをいだいている限り、地域の繁栄はありえない。地域を活性化する源泉は、住民一人ひとりの愛郷の心であり、自らが地域建設の主体者であると自覚にある。いわば、住民の心の活性化にこそ鍵がある。(中略)

愛郷あいきょうの心が地域活性の源泉

いかなるところであろうが、私たちが信心に励むその場所が、仏のいる寂光土となる。ゆえに創価の同志は、現実を離れて、彼方に理想や幸福を追い求めるのではなく、自分のいるその地こそ、本来、宝土であるとの信念に生き抜いてきた。そして、いかなる逆境のなかでも、わが地域を誇らかな理想郷に変え、「幸福の旗」「勝利の旗」を打ち立てることを人生哲学とし、自己の使命としてきた。地域の繁栄は、人びとの一念を転換し、心という土壌を耕すことから始まる。そこに、強き郷土愛の根が育まれ、向上の樹木が繁茂し、知恵の花が咲き、地域は美しき幸の沃野となるからだ。また、そのための創価の運動なのである。(「愛郷」の章、194~195ページ) (「桂冠」の章、304~306ページ)

第一号の対談集

ここにフォーカス「天舞」の章に、クーデンホーフ・カレルギー伯爵と山本伸一との対談の様子がつづられています。伯爵は、28歳で欧州の統合を訴えた著書『パン・ヨーロッパ』を出版。第2次世界大戦の渦中、ナチス・ドイツの迫害を受け、亡命を余儀なくされますが、欧州統合の実現へ向け、行動を続けました。伸一との対談が実現した1967年(昭和42年)は、現在の欧州連合(EU)の前身である欧州共同体(EC)が誕生した年でもありました。創価学会を「世界最初の友愛運動である仏教のよみがえり」と評価していた伯爵は、伸一との対談の折にも、「創価学会による日本における仏教の復興は、世界的な物質主義に対する、日本からの回答であると思います。これは、宗教史上、新たな時代を開くものとなるでしょう」とたたえています。その後も2人の交流は続き、書簡のやりとりが重ねられます。70年(同45年)10月には、開校3年目の創価学園、聖教新聞本社などで、国際情勢や青年論など、多岐にわたるテーマで、計10時間を超える語らいが行われました。2人の対談は、、『文明・西と東』として出版されました。今、池田先生の世界の識者との対談集は80点に及びます。伯爵との対談集は、その第1号となったのです。