新・人間革命 第11巻

小説「新・人間革命」に学ぶ

今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第11巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。次回の「名場面編」は11日付、「御書編」は18日付、「解説編」は25日付の予定。

第11巻基礎資料

物語の時期
1966年(昭和41年)3月10日~1967年4月22日

「暁光」の章

1966年(昭和41年)3月10日、山本伸一は5年半ぶりに南米ブラジルを訪問。ブラジルは、会員約8000世帯に達し、サンパウロで文化祭を

までに。しかし、マスミの誤った情報などから、学会を危険視する空気が強まっていた。彼は、ブラジルの創価学会の目覚ましい発展に、三障四魔が紛然として起こってきたのだと同志を励ます。翌日、伸一は、リオデジャネイロ市内を視察。また、自らブラジルの著名なジャーナリストの取材を受け、学会への偏見を打ち破る連続闘争を開始した。13日に、サンパウロで開催された南米文化祭などの行事も警察の厳しい監視下で行われた。メンバーは、創価学会の真実を抜き、学会を、先生を、世界一、称賛する国にしてみせると、決意する。だが、74年(同49年)、ビザが発給されず、伸一の訪問は中止に。しかし、同志は”必ず、先生をお呼びしてみせる!”と、社会の信頼を勝ち取る努力を続ける。そして、84年(同59年)、大統領の招聘によって、伸一の訪問が実現。暗黒の闇を破り、「暁光」を迎えたのだった。

〈1974年(昭和49年)3月、山本伸一は北・南米を訪問。派遣幹部も手分けして中・南米各国を回り、開拓の苦闘を重ねてきた現地の会員を激励する〉

一の声であった。(中略)「辛いだろう。悲しいだろう。悔しいだろう・・・。しかし、これも、すべて御仏意だ。きっと何が大きな意味があるはずだよ。勝った時に、成功した時に、未来の敗北と失敗の因をつくることもある。負けた、失敗したという時に、未来の永遠の大勝利の因をつくることもある。ブラジルは、今こそ立ち上がり、これを大発展、大飛躍の因にして、大前進を開始していくことだ。また、そうしていけるのが信心の一念なんだ。長い目で見れば、苦労しとところ、呻吟したところでは、必ず強くなる。それが仏法の原理だよ。今回は、だめでも、いつか、必ず、私は激励に行くからね」(「僥倖」の章、81~82ページ)

〈ブラジルの友は悔しさをバネに、祈りに祈り、地域に信頼と友情の連帯を広げた。そして、84年(同59年)2月、当時の大統領の招聘により、ついに伸一の訪問が実現する〉

ブラジルに轟く歓喜の掛け声

一がサンパウロ市にある州立総合スポーツセンターのイブラプエラ体育館に姿を見せると、大歓声があがり、大拍手が轟いた。皆、この出会いを、待ちに待っていたのだ。伸一は、両手を掲げながら、中央の広い円形舞台を一周したあと、万感の思いを込めてマイクを握った。「十八年ぶりに、尊い仏の使いであられるわが友と、このように晴れがましくお会いできて、本当に嬉しい。(中略)しかし、これまでに、どれほどの苦労と、たくましき前進と、美しい心と心の連帯があったことか。私は、お一人お一人を抱擁し、握手する思いで、感謝を込め、涙をもって、皆さんを賞讃したいのであります。」(中略)大地を揺るがさんばかりの歓声と拍手が起こり、やがて、あの意気盛んな、歓喜と誓いのかけ声がこだました。「エ・ピケ、エ・ピケ、エ・ピケ、ピケ、ピケ。エ・オラ、エ・オラ、エ・オラ、オラ、オラ…」皆、目を赤く腫らしながら、声を限りに叫んだ。(「僥倖」の章、103~104ページ)

「開墾」の章

伸一たちは一行は、ブラジルから、次の訪問地のペルーへ向かう。3月15日、首都リマに到着した彼は、この日、市内のメトロポリタン劇場で開催される大会に出席する予定であった。だが、ここでもペルー当局の監視の目が光っていた。彼は、熟慮の末、同志を守るために出席を見送る。そして、滞在するホテルの一室で、未来を開くために、同志と懇談。ペルー広布の原野を「開墾」してきた先駆の友をたたえる。また、彼らに、三点にわたって、人生を勝利する要諦を指導する。第一に、生命力を無限に涌現させる源泉こそが唱題であり、唱題根本の人には行き詰まりがない。第二に、御書をしっかりと拝読し、身で読んでいく教学の重要性をあげる。そして第三には、最後まで諦めずに頑張り通していく信心の持続を訴える。翌日、伸一は、リマの中心街で、南米解放の英雄サン・マルティンお騎馬像を見つめ、その生涯に思いを馳せる。また、派遣幹部は手分けして、中・南米各国を訪問。ここにも過酷な環境下で、懸命に学会活動に励む、尊き同志たちがいた。

〈1974年(昭和49年)3月、山本伸一は北・南米を訪問。派遣幹部も手分けして中・南米各国を回り、開拓の苦闘を重ねてきた現地の会員を激励する〉

原たちは、(パラグアイで=編集部注)懸命に御本尊の功力を、信心の大確信を訴えた。確信と揺らぐ心との真剣勝負であった。三歳ぐらいの男の子を抱えた老婦人が尋ねた。「この子は孫ですが、生まれつき目が見えないんです。信心のを頑張れば、この子の目も、見えるようになりますか」老婦人に一家は、移住地の人たちに、仏法のすばらしさを訴え、布教に励んできた。ところが、目の不自由な子供が生まれたことから、「なんで学会員が、そんなことになるんだ」と、批判を浴びせられていたのである。(中略)悲嘆に暮れ果てての質問であった。皆、黙り込んで、清原の言葉を待った。彼女は断言した。「明確なことが一つだけあります。それは、強情に信心を貫いていくならば、絶対に、幸福になれるということです。このお子さんが、生涯、信心を貫けるように、育ててください。信心をして生まれてきた子どもに、使命のない人はいません。その使命を自覚するならば、必ず最高の人生を送ることができます」この指導が、世間に引け目を感じ、信心に一抹の不安をいだいていた、この家族の心の闇を、打ち破ったのである。

信心は立場や役職ではない

清原に指導を受けてからというもの、老婦人は、目の不自由な孫が、家の宝だと思えるようになった。そして、家族も、その子どもの幸せを願い、真剣に信心に励み、団結が生まれていったのである。(中略)木々の生い茂る道を、マイクロバスに揺られながら派遣幹部たちは思った。”もし、自分たちがこの環境のなかに、ただ一人置かれたならば、本当に信心を貫いていけただろうか。皆に指導はしてきたが、学ぶべきは自分たちの方ではないのか・・・”信心とは、立場や役職で決まるものではない。広宣流布のために、いかなる戦いを起こして、実際に何を成し遂げてきたのかである。(「開墾」の章、178~182ページ)

「常勝」の章

北・南米訪問を終えた伸一は、第一線で活動に励むメンバーとの記念撮影、激励のために、大阪、和歌山、静岡、香川、愛媛など、日本各地を東奔西走する。彼は、「第七の鐘」が鳴り終わる1979年(昭和54年)を目指し、大前進の指揮を執り続ける。過密スケジュールの中でも、常に未来のことを考え、御書の英語の推進など、9月18日、伸一は、阪神甲子園球場で行われる「関西文化祭」に出席するため、大阪へと向かう。当日は、断続的に雨が降り続き、開催が危ぶまれたが、関西の同志は、不屈の関西魂で決行。苦難の雨を、栄光の雨に変え、関西の新たな「常勝」の金字塔を打ち立てた祭典となった。この頃、伸一は、深刻化したベトナム戦争に胸を痛めていた。この凄惨な戦争を、一日でも、一瞬でも早く、やめさせなければならないと、11月の青年部総会で、和平提言を行う。また、73年(同48年)1月1日付で、米大統領に、停戦を訴える書簡を送り、平和のために努力を続けるのであった。

〈9月18日、阪神甲子園球場で「関西文化祭」が行われた。台風の影響による雨のため、鼓笛隊のジュニア隊の出場は見送られた〉

学会子は負けたらあかん

女たちが、出場がなくなったことを知ったのは、白と黄色のユニフォームを着込み、今か今かと、開演を待っていた時であった。(中略)「今回はジュニア隊の出場はなくなりました」(中略)こう聞かされると、皆、声をあげて泣き出した。”文化祭で山本先生に見ていただくんや!”と、小さな胸に闘志を燃やし、夏休みを返上して、来る日も来る日も、炎天下で練習を重ねてきたのだ。それなのに文化祭に出ることができなくなったと思うと、悔しくて、悲しくて仕方なかったのである。ジュニア隊の責任者で女子部の幹部の吉倉稲子にも、少女たちの悔しい気持ちはよくわかった。(中略)しかし、彼女は、心のを鬼にして、泣きじゃくる少女たちに、あえて、厳しい口調で言った。「学会子は、何があっても、絶対に泣くもんやない!みんな、山本先生の弟子やろ!師子の子やろ!先生は、泣き虫は大嫌いなはずや!」ジュニア隊の少女たちが泣いていた顔を上げた。彼女は、それから、諄々と諭すように訴えた。「今日、皆さんの出場を中止にしたんは、皆さんが学会の宝やからです。絶対に、風邪なんかひかせるわけにはいかんからです(中略)皆さんのことを、一番、心配されているのは、山本先生です。今のみんなの悔しい気持ちも、よくご存じやと思います。残念で仕方ない気持ちはようわかりますが、先生に『私たちは大丈夫です』言うて、ご安心していただいてこそ、鼓笛隊やないでしょうか・・・」(中略)吉倉は、涙ぐむ一人の少女の傍らに行き、腰をかがめて、ハンカチで涙を拭いてあげた。そして、肩に手をかけ、体をゆすりながら言った。「悔しいやろうけど、頑張るんや!これも、文化祭の戦いや!あんたは、絶対に弱虫やない!」泣いていた少女は、コクリと頷いた。(「常勝」の章、246~248ページ)

「躍進」の章

山本伸一の会長就任となる1967年(昭和42年)、「躍進の年」を迎える。学会は、前年末に会員600万世帯を達成。伸一は、この一年を、広宣流布の黄金の飛躍台にしなければならないと、強く心に決めていた。1月9日に関西を訪問したのをはじめ、北海道、九州、中国など2週間ほどの間に国内をほぼ一巡。瞬時の休みもない激闘を続ける。1月、公明党は初の衆院選で25人が当選を果たし、衆議院第4党となり、大勝利で飾る。3月4日、伸一は、学会として初の文化会館のオープンとなる中国文化会館の落成式に臨む。彼は、広宣流布とは、人間文化の創造であると考えていた。そして、世界で初めて原爆が投下された広島がある中国方面は、世界の恒久平和を実現する生命の大哲学の、発信基地であらねばならないと確信していた。4月22日には、新潟を訪問する。そこで9年前佐渡訪問を回想。その折、彼は、日蓮大聖人の御生涯を偲び、自身もまた、大難に負けず、広布に生き抜こうと誓ったことを思い起こし、決意を新たにする。

〈1967年(昭和42年)4月22日、山本伸一は新潟を訪問。佐渡の地での日蓮大聖人の闘争に思いをめぐらせた〉

難の時こそ師子王の心で進め

蓮は、佐渡に流されてからも、弟子たちのことが頭から離れなかった。竜の口の法難以来、弾圧の過酷さ、恐ろしさから、退転したり、法門への確信が揺らぎ始めた弟子たちが、少なくなかったからである。(中略)弟子のなかには、日蓮に批判の矛先を向ける者もいた。「日蓮御房は師匠ではあられるが、その弘教はあまりにも剛直で妥協がない。我等は柔らかに法を弘めよう」と言うのである。もっともらしい言い方をしてはいるが、その本質は臆病にある。しかし、その臆病な心と戦おうとはせず、弘教の方法に問題をすり替えて師匠を批判し、弟子としての戦いの放棄を正当化しようというのだ。堕落し、退転しゆく者が必ず用いる手法である。佐渡で認めた御書には、弟子の惰弱さを打ち破り、まことの信心を教えんとする、日蓮の厳父のごとき気迫と慈愛が脈打っている。曰く「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(御書232ページ)と。天も捨てよ、難にいくら遭おうが問題ではない、ただ身命をなげうって広宣流布に邁進するのみであるとの、日蓮の決意を記した、「開目抄」の一節である。それは、諸天の加護や安穏を願って、一喜一憂していた弟子たちの信仰観を砕き、真実の「信心の眼」と「境涯」を開かせんとする魂の叫びであった。(中略)さらに、「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人なして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(同957ページ)と。法難の時こそ”師子王”となって戦え、そこに成仏があるとの指導である。(中略)そして、自分を迫害した者たちに対しても、彼らがいなければ「法華経の行者」にはなれなかったと、喜びをもって述べているのである。これこそ、最大の「マイナス」を最大の「プラス」へと転じ、最高の価値を創造しゆく、大逆転の発想であり、人間の生き方を根本から変えゆく、創造の哲学といえよう。(「躍進」の章、394~397ページ)

第11巻御書

御文

御文

朝朝ちょうちょう仏ほとけに起き夕夕せきせき 仏と共に臥し・・・・(御書737ページ、 御義口伝おんぎくでん

通解

傅大士ふだいししゃくには)「毎朝、仏と共に起き、毎晩、仏と共にねむ る・・・・

小説の場面から

〈1966年(昭和41年)3月、山本伸一はペルーを初訪問し、現地の同志を激励。人生を勝利する第一の要諦に「題目」を挙げ、次のように指導する〉 「御本尊は、大慈悲の仏様です。悩んでいること、希望することを、ありのまま祈っていくことです。苦しい時、悲しい時、辛い時には、子どもが母の かいな に身を投げ出し、すがりつくように、『御本尊様!』と言って、無心にぶつかっていけがいいんです。御本尊は、なんでも聞いてくださる。思いのたけを打ち明けるように、対話するように、唱題を重ねていくんです。やがて、地獄の苦しみであっても、嘘のように、露のごとく消え去ります。もし、自らの過ちに気づいたならば、心からお詫びし、あらためることです。二度と過ちは繰り返さぬ決意をし、新しい出発をするんです。

題目こそ幸福の直道

また、勝負の時には、断じて勝つと心を定めて、獅子の吼えるがごとく、大宇宙を揺り動かさんばかりに祈り抜くんです。そして、喜びの夕べには『本当にありがとうございました!』と、深い感謝の題目を捧げることです。(中略)題目は、苦悩を歓喜に変えます。さらに、歓喜を大歓喜に変えます。ゆえに、嬉しい時も、悲しい時も、善きにつけ、悪しきにつけ、何があっても、ただひたすら、題目を唱え抜いていくことです。これが幸福の直道です。」(「開墾」の章、138~139ページ)

御文

本朝ほんちょう聖語せいご広宣こうせん の日は亦仮字またかなやくして梵震ぼんしん つうし(御書1613ページ、 五人所破抄 ごにんしょはしょう

通解

大聖人の御書も、広宣流布の時には、また日本語を外国語に翻訳して、広く世界に伝えるべきである。

小説の場面から

〈1966年(昭和41年)夏、伸一は国内外を東奔西走する中で、未来への布石として御書の英訳を推進する〉 伸一は、世界広布のために、御書を各国語に翻訳するにあたって、英語訳の大切さを痛快していた。それは英語を話す人が多いだけでなく、御書の英訳から、ほかの外国語に重訳されていく可能性が高いからであった。(中略)翻訳作業は、御書講義などでよく研鑽される御抄を中心に進められていったが、担当したスタッフにとっては、苦悩の連続であった。大聖人の教えを正確に翻訳し、伝えていくには、何よりも、御書の原文を、正しく解釈することが重要になる。(中略)教学部の関係者に聞いたり、山本会長の講義や仏教辞典などにあたりながら、まず解釈に幾晩も費やさなければならなかった。

翻訳ほんやく新たな歴史開く推進力

仏法用語など、英語にはない概念の言葉は、文化の違いをどう説明するのかも、難しい問題であった。スタッフは、時に黙々と辞書と格闘し、時に互いに意見をぶつけ合い、激しく議論することもあった。(中略)翻訳は、華やかなスポットライトを浴びることもない。地味で目立たぬ労作業である。しかし、それは、世界の広宣流布を推進するうえで、いかに大きな貢献であったか。偉業というものは、賞賛も喝采もないなかで、黙々と静かに、成し遂げられていくものといえる。(「常勝」の章、215~216ページ)

(「桂冠」の章、304~306ページ)

戦争は人間の最大の愚行

ここにフォーカス「常勝」の章に、ベトナム戦争に心を痛め、平和のために奮闘する山本伸一の姿が描かれています。伸一は1966年(昭和41年)11月の青年部総会で和平提言を発表。翌年8月の学生部総会でも、ベトナム戦争の早急な解決を訴えています。さらに、ニクソン米大統領宛てに書簡を送ります。その中で、彼は「あなたも現在、『平和の大統領』として後世に長く語り伝えられていくか、それとも全人類の平和への期待を裏切った人として歴史の断罪を受けるか、その分かれ目に立たされているような気がいたします」と、大統領に忠告し、さまざまな国際機構を設置を提案しています。書簡は人を介して大統領補佐官のキッシンジャー氏に託され、大統領に届けられたました。そえれから間もなく、ベトナム和平協定が結ばれています。同章には、「戦争は、人間の魔性の心がもたらした、最大の蛮行であり、最大の愚行以外の何ものでもない」と。この「魔性」の生命を打ち砕き、人間の心の中に崩れざる”平和の砦”を築くのが、私たちの「人間革命」の運動です。

第11巻解説

紙面講座池田主任副会長


小説『新・人間革命』完結から1年となる今月8日、東京・信濃町の総本部い「創価学会 世界聖教会館」が竣工しました。同会館の入り口には「聖教新聞 師弟凱歌の碑」が設置されています。碑文は、「9・8」に寄せて、池田先生が記したものです。碑文の冒頭に、「世界広布とは言論戦である。仏法の真実と正義を叫ぶ、雄渾なる言論の力なくして、創価の前進はない」とあります。第11巻の「暁光」の章には、山本伸一がブラジルのリーダーに、言論戦について語る場面が描かれています。「言論といっても機関誌などに原稿を書くことだけではない。むしろ、重要なのは、肉声の響きであり、一対一の対話だ。(中略)仏法と学会の正義と真実を、語り抜いていくことこそ、最も大切な言論の白兵戦です」(67ページ)対話を通して、一人また一人と心を通わせ、学会理解を広げていくことこそ、広宣流布の実像です。また、碑文には、「聖教の姉妹紙誌は今、五大州に智慧の光を放ち、(中略)『人間の機関誌』の論調は世界同時に行き渡る」ともあります。「開墾」の章では、ペールで発刊されるスペイン語の機関誌の名前を、伸一が「ペルー・セイキョウ」と命名したことがつづられています。今、世界50カ国・地域で80以上の聖教の姉妹紙・誌が刊行されています。世界聖教会館の開館を迎える今この時、私たちは聖教新聞を活用しながら、「一対一の対話」に、勇んで挑戦していきたいと思います。

時代を変える力

「暁光」の章では、学会に対する誤解や偏見が強かった、軍事政権下のブラジルでの、同志の苦闘が描かれています。伸一は、それらを打ち破るため、積極的にマスコミなどと対話します。また、メンバーの心に、何があっても揺るがない信心の柱を打ち立てようと、「難と戦うことこそ、自己の生命を磨き、境涯を高めゆく直道であり、人間革命のための飛躍台なんです」(38ページ)と励ましを送ります。ブラジルの同志は、社会から出発します。その先頭に立ったのは、婦人部でした。伸一は婦人部のリーダーに、「時代を変えていく本当の原動力は、婦人の祈りであり、生活に根ざした婦人の活動なんだ。婦人の力は、大地の力といえる。大地が動けば、すべては変わる」(67ページ)と語ります。日本出身の彼女は、真剣勝負の唱題を重ね、ポルトガル語を書いた紙を頼りに、数十キロも離れたメンバーの家へ、毎日のように激励に通います。こうした激闘によって、ブラジル広布に立ち上がる同志が次々と誕生しました。その精神は、「ムイト・マイス・ダイモク(もっと題目を)!」との合言葉となり、現在のブラジルSGIに脈打っています。草創の戦いが受け継がれているのです。伸一がブラジルを初訪問した1960年(昭和35年)10月、海外初の支部が結成されました。その後、ペルー、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチン、ドミニカ共和国の中南米各国にも支部が誕生します。「開墾」の章には、こうした歴史的には仏法と全く無縁の国々で、いかにして学会理解が広まっていったかが記されています。いずれの国でも、「その作業は、石だらけの大地を耕し、畑を作り上げるような、苦闘の連続」(209ページ)でした。しかし、メンバーは、よき市民として社会に貢献し、信頼を広げていきました。この根底にあったのが、伸一との「心の絆」です。派遣幹部が訪れたアルゼンチンでは、伸一の次のような伝言が紹介されます。「日本とアルゼンチンは、地球の反対側にあり、遠く離れていますが、広宣流布に生き抜く人の心は、私と一体です。私の心のなかには、常に皆さんがいます。」(166ページ)私たちは、草創の苦闘を決して忘れてはなりません。その魂こそ、師との「心の絆」です。「師弟の精神」は、出会いの有無ではなく、心に師を抱き、師への誓いを果たそうt、懸命に行動する中に脈動するのです。

20世紀最後の連載

第11巻の連載期間は、2000年(平成12年)5月から同年末までの、20世紀最後の時に当たります。「躍進」の章に「二十世紀は戦争につぐ戦争の世紀」(338ページ)とありますが、そのことを象徴する出来事として、「常勝」の章に、ベトナム戦争の詳細がつづられています。ベトナム戦争は、1966年(昭和41年)には、”泥沼”の様相を呈していました。伸一は、1月の首都圏の高等部員会、11月の青年部総会、翌年8月の学生部総会で、ベトナム戦争について言及しています。これらの発言に対して、政治家などの圧力が予言されましたが、「戦争で真っ先に死んでいくのは青年であり、最大の犠牲となるのは罪もない民衆である」(282ページ)との信念から、戦争解決のための提言などを発表していきました。伸一の提言に、大きな反応を示したのは、アメリカの青年部員たちでした。「徴兵され、あるいは職業軍人として、ベトナムに行かねばならない人も、少なくなかった」(295ページ)からです。メンバーは、仏法には戦争をなくす方途が説かれているはずだと確信し、御書や伸一の講義を懸命に研さんしていきます。そして、「根本的な平和の道は、一人ひとりの人間の生命の心のなかに、崩れざる”平和の砦”を築く”人間革命”しかない」(302ページ)との結論に達します。ここに、仏法者としての根本的なあり方が明確に示されています。73年(同48年)1月、伸一は米大統領宛てに停戦を訴える書簡を送ります。その書簡は、「『提言の書』であると同時に、『平和への請願の書』であり、また、『諌言の書』」(315ページ)でした。「戦争の世紀」だった20世紀から、21世紀を「平和世紀」にしなくてはならない、との信念に基づく、やむにやjまれぬ行動でした。それは、日蓮大聖人が「立正安国論」をもって、国主諌暁をされた精神に通じるものがあると思えてなりません。「躍進」の章の最後に、大聖人の迫害との闘争が記述されているのは、”大聖人の精神を21世紀にも伝え、実践していこう”との池田先生の思いが込められているのではないでしょうか。これからも、大聖人の御精神のままに、いかなる困難も恐れず、広布拡大に邁進してまいりましょう。

名言集

信心の証

信仰の道は、決して平坦ではないでしょう。険しい上がり坂もあります。嵐の夜もあるでしょう。だが、何があろうが、負けないでいただきたい。負けないということが、信心の証なのであります。(「暁光」の章、57ページ)

祈りから始まる

思いやりも、祈りから始まる。祈りこそ、人間と人間を結びゆく力である。(「開墾」の章143ページ)

一人への励まし

世界広布という崇高にして壮大な作業はもまた、そこに生きる一人の人間から始まる。ゆえに、その一人を力の限り、生命の限り、励まし、応援することだ。(「開墾」の章、160ページ)

学会精神

学会精神とは――人びとの幸福のため、世界の平和のために戦い抜く、慈悲の心である。何ものをも恐れず、苦難にも敢然と一人立つ、挑戦の心である。断じて邪悪を許さぬ、正義の心である。(「常勝」の章、264ペー ジ)

日々発心

持続というのは、ただ、昨日と同じことをしていればよいのではありません。「日々挑戦」「日々発心」ということです。信心とは、間断なき魔との闘争であり、仏とは戦い続ける人のことです。(「躍進」の章、366ページ)