新・人間革命 第10巻

小説「新・人間革命」に学ぶ

今回の「世界広布の大動 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第10巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。次回の「名場面編」は17日付、「御書編」は24日付、「解説編」は31日付の予定。

第10巻基礎資料

物語の時期 1965年(昭和40年)1月1日~1966年3月5日

「言論城」の章

「勝利の年」と名づけられた1965年(昭和40年)の新春は、会長・山本伸一の小説『人間革命』の「聖教新聞」連載で始まった。恩師・戸田城聖の正義と精神と広布の偉業を、永遠に伝え抜くために、伸一の新たな言論闘争が開始されたのである。1月16日、伸一は新九州本部の落成式に臨み、さらに大阪、鳥取、岐阜、愛知など、指導行を続ける。そして、5月3日、会長就任5周年となる本部幹部総会を、540万世帯の同志とともに迎えた。この頃、聖教新聞者では、会員の強い要望であった日刊化への本格的な準備が進められていた。6月8日、伸一は、聖教新聞社を訪れ、職員の求めに応じて、共に各紙面を検討し、アドバイスを重ね、聖教を世界最強の「言論城」にと訴える。7月15日、遂に、聖教新聞が日刊化。伸一は、配達に関わるメンバーの無事故、日々真剣に祈り、配達員への機関誌を「無冠」と命名する。相前後して、アメリカ、フランス、ブラジル、西ドイツ(当時)、香港、ペルーなど、海外でも機関紙誌が次々と発刊されていく。
〈1965年(昭和40年)7月15日、聖教新聞の日刊がスタートした〉    

配達員の同志は「無冠の王」

の日刊化を一番喜び、最もはりきっていたのが、配達員であった。日刊化を前に、その趣旨などを説明するために、各地で配達員会が開かれたが、どの地域でも、集ったメンバーは、闘志に満ちあふれたいた。新しき広布の幕を開く聖教新聞を、自分たちが支えるのだという、誇りと歓喜を、皆がかみしめたいたのであった。(中略)山本伸一は、各地の配達員の奮闘を聞くにつけ、深い感銘の思いをいだき、合掌するのであった。彼は、配達員や取次店の店主らの無事故を、日々、真剣に祈り、念じていた。また、配達に携わるメンバーが、睡眠時間をしっかりとるために、幹部に、活動の終了時間を早めるように徹底するなど、心を配ってきた。皆のことが頭から離れずに、深夜、目を覚ますことも少なくなかった。そして、そろそろ取次店のメンバーば仕事に取りかかるころかと思うと、目が冴えて、眠れなくなってしまうのである。また、全国の天気が、気がかりでならなかった。朝、起きて、雨が降っていたりすると、配達員のことを思い、胸が痛んだ。そんな日は、唱題にも、一段と力がこもった。山本伸一は、聖教新聞が日刊になって以来、取次店の店主や配達員が、張り合いをもって業務に取り組めるように、さまざまな提案と激励を重ねてきた。その一つが、メンバーが互いに励まし合い、業務の指針となるような、機関紙を発刊してはどうかとの提案であった。そして、この機関紙は日刊化一周年にあたる、一九六六年(昭和四十一年)の七月に、月刊でスタートすることになる。伸一は、メンバーの要請を受け、機関紙の名を「無冠」と命名した。それは、「無冠の王」の意味である。権力も、王冠も欲することなく、地涌の菩薩の誇りに燃え、言論城の王者として、民衆のために戦い走ろうとする、取次店、配達員のメンバーの心意気を表現したものである。(「言論城」の章、67~71ページ)

「幸風」の章

8月14日、伸一はアメリカのロサンゼルスへ。出発直前に、ロスで人種差別への抗議から、暴動が発生する。同行することになっていた幹部は、危険が予測されることから、渡航延期を提案。しかし、伸一は「今こそ、仏法という生命の平等の哲学を、アメリカの天地に流布せねばならない」との強い決意で、渡米するのであった。15日、ロス郊外のエチワンダで、アメリカ初の野外文化祭が開催される。伸一は全精魂を込めて同志を激励。終了後も、人種差別に苦しんできたアフリカ系アメリカ人の青年と固く握手を交わし、アメリカ広布への思いを語る。さらに一行は、17日、戸田城聖が夢に見、訪問を念願した国・メキシコを訪れる。市内を視察した伸一は、師に代わってメキシコの街を歩いていることに深い感慨を覚え、必ず、ここにも幸福の花園をつくると心に誓う。アメリカ、メキシコに世界広布への新しき「幸風」を起こして帰国した彼は大阪へ。組織の第一線で奮闘する全国の班長・班担当員との、記念撮影がスタートしたのである。
〈8月、アメリカ・ロサンゼルス南部のワッツ地区で、人種差別に端を発する暴動が発生した。しかし、山本伸一は予定通りアメリカを訪問。15日には、ロサンゼルス郊外のエチワンダで野外文化祭が開催された〉    

誠実の行動が人間共和築く

こには、人種、民族を超えた、崇高なる人間と人間の、信頼と生命の融合の絆が光っていた。(中略)伸一は、グラウンドを後にし、車に向かう途中、立っていた役員の青年たちに、励ましの声をかけ、次々と握手を交わした。「ご苦労様!ありがとう!」青年たちは、頬を紅潮させ、力の限り、伸一の手を握り返した。彼が、役員の青年と握手をしていると、一人のアフリカ系アメリカ人の青年が駆け寄って来て、手を差し出した。その手を握りると、青年は、盛んに、何か語り掛けた。(中略)「山本先生。ワッツで騒ぎが起こっている、こんな危険な時に、アメリカにおいでいただき、本当にありがとうございます。その先生の行動から、私は”勇気”ということを教えていただきました。また、人びとの平和のために生きる”指導者の心”を教えていただきました。。私は、勇気百倍です。必ず、いつの日か、私たちの力で、人種間の争いなどのない、人間共和のアメリカ社会を築き上げてまいります。ご安心ください」こう語る青年の目から、幾筋もの涙があふれた。伸一は言った。「ありがとう!あなたが、広宣流布への決意を定めてくだされば、私がアメリカに来た目的は、すべて果たせたといっても過言ではありません。一人の人が、あなたが、私と同じ心であ立ち上がってくだされば、それでいいんです。大河の流れも一滴の水から始まるように、あなたから、アメリカの平和の大河が始まるからです。わがアメリカを、よろしく頼みます」その青年は、伸一はの手を、両手で、ぎゅっと握り締めた。互いの目と目が光った。(「光風」の章、126~132ページ)

「新航路」の章

10月19日、伸一は文化交流の新たな道を開こうと、欧州へ飛び立つ。フランスのパリでは、ヨーロッパ本部長の川崎鋭治の自宅に設けられたヨーロッパ事務所の開所式に出席。席上、ヨーロッパを総合本部として、2文部にすることを発表した。また、ナイジェリアから参加していた婦人が、アフリカ支部に就任する。21日の指導会では、ベルギーに地区が結成され、イギリスのロンドン地区の新人事が発表される。次いで、西ドイツでは、日本から世界広布への決意に燃えて移住し、炭鉱で働く青年たちと再開。伸一は、広宣流布の「新航路」を開く使命を担った大切な同志を心からたたえ、大きな期待を寄せる。24日に到着したイタリアのミラノでは、民音の専任理事である秋月英介らが、ミラノのスカラ座を訪問。日本公演の招聘の交渉にあたる。さらに、南フランス、スペインを経て、ポルトガルのリスボンへ向かう。一行は、”大航海時代”の突破口を開いた、エンリケ航海王子をたたえる記念碑の前に立ち、世界平和への大航海へ船出する決意を新たにするのであった。
〈10月27日、山本伸一はポルトガルのリスボンで、エンリケ航海王子の没後500年を記念して建てられた、新航路発見の記念碑を見学。エンリケは、ポルトガルが大航海時代の覇者となっていった最大の功労者である〉    

“臆病の岬”を越えよ!

ンリケによって育まれた船乗りが、アフリカ西海岸を、何度、探索しても、新航路を発見することはなかった。彼らは、カナリア諸島の南二百四十キロメートルにあるポジャドール岬より先へは、決して、進もうとはしなかったからである。そこから先は、怪物たちが住み、海は煮えたぎり、通過を試みる船は二度と帰ることができない、「暗黒の海」であるとの中世以来の迷信を、誰もが信じていたからだ。エンリケは叫ぶ。「岬を越えよ!勇気をもて!根拠のない妄想を捨てよ!」それに応たえたのは、エンリケの従士のジル・エアネスであった。(中略)成功を収めるまでは、決して帰るまいと心に決めて出発した。そして、一四三四年に、ボジャドール岬を越えたとの報告をもって、王子のもとに帰って来たのである。(中略)カナリア諸島に近い、ボジャドール岬を超えただけでだあり、新航路の発見にはほど遠かった。しかし、その成功の意義は、限りなく大きく、深かった。「暗黒の海」として、ひたすら、恐れられていた岬の先が、実は、何の変りもない海であったことが明らかになり、人びとこ心を覆っていた迷信の雲が、吹き払われたからである。「暗黒の海」は、人間の心のなかにあったのだ。エアネスは、勇気の舵をもって、自身の”臆病の岬”を越えたのである。(中略)山本伸一は、しみじみとした口調で語った。「ポルトガルの歴史は、臆病では、前進も勝利もないことを教えている。大聖人が『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』(御書一二八二ページ)と仰せのように、広宣流布も臆病では絶対にできない。広布の新航路を開くのは勇気だ。自身の心の”臆病の岬”を越えることだ」(「新航路」の章、287~290ページ)

「桂冠」の章

10月31日、伸一は、ヨーロッパ訪問から帰ると、直ちに創価大学の設立審議会を発足させた。牧口・戸田の両師が描いた構想の実現に向かって、第一歩を踏み出したのである。また、記念撮影を中心に、各地のメンバーの激励に東奔西走。病に悩む友や、母を亡くし、父が未入会の姉妹など、悲しみに沈んでいる同志に、渾身の励ましを送る。さらに、彼は、組織が官僚主義に陥ってしまうことを憂慮し、組織の中核を担う本部職員の育成に精魂を注ぐ。年末も、学会本部、聖教新聞社を隅々まで回り、陰で黙々と働く職員をたたえる。1966年(昭和41年)、伸一は、1月14日には早くも、ハワイへ出発する。ハワイ会館の開館式に出席するなど、ハワイ広布の発展へ師子奮迅の戦いを進めていった。2月27日、本部幹部会の席上、壮年部の新設が発表される。3月5日には壮年部結成式が学会本部で開催された。伸一は「創価の城を支えゆく、黄金柱に」と指導。誇り高き「桂冠」の王者が、妙法の名将が、いよいよ、出陣したのである。
〈1966年(昭和41年)5月3日、壮年部の結成式が学会本部で行われ、山本伸一が指導した〉    

今こそ立て!創価の黄金柱

(山本伸一=編集部注)の声に、一段と力がこもった。「壮年部の皆さんは、これからが、人生の総仕上げの時代です。壮年には力がある。それをすべて、広宣流布のために生かしていくんです。大聖人は『かりにも法華経のゆえに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ』(御書一五六一ページ)と仰せです。死は一定です。それならば、その生命を、生命の永遠の大法である、法華経のために捨てなさい。つまり、広宣流布のために使っていきなさいーーと、大聖人は言われている。それこそが、露を大海にに入れ、塵を大地に埋めるように、自らが、妙法という大宇宙の生命に融合し、永遠の生命を生きることになるからです。一生は早い。しかも、元気に動き回れる時代は、限られています。壮年になれば、人生は、あっという間に過ぎていきます。その壮年、今、立たずして、いつ立ち上がるんですか!今、戦わずして、いつ戦うんですか!いったい、何十年後に立ち上がるというんですか。そのころは、どうなっているか、わからないではありませんか。今が黄金の時なんです。限りある命の時間ではないですか。悔いを残すようなことをさせたくないから、私は言うんです!」(中略)「私もまた、壮年部です。どうか、皆さんは、私とともに、学会精神を根本として雄々しく立ち上がり、創価の城を支えゆく、黄金柱になっていただきたいのであります」(中略)伸一は、参加者に一礼すると、出口に向かって歩き始めたが、足を止めた。そして、拳を掲げて言った。「皆さん!一緒に戦いましょう!新しい歴史をつくりましょう!同じ一生ならば、花の法戦に生きようではないですか!」「ウォー」という歓声をあげながら、皆も拳を突き出した。その目は感涙で潤んでいた。闘魂は火柱となって燃え上がったのだ。(「桂冠」の章、388~391ページ)

第10巻御書

御文     

御文

人の又是またかくの     ごとし世間せけんあさ ことには身命 しんみょうを うしなへども大事 だいじの仏法なんどには すつる事 かたし ゆえに ほとけになる人もなかるべし(御書956ページ、 佐渡さど御書)  
通解
人もまた同じようなものである。世間せけんあさことには、命を失うことはあっても、大事な仏法のために命を捨てることは     むずかしい。それ ゆえに仏になる人もしないのである。  
小説の場面から 〈1965年(昭和40年)夏、世界広布の使命に燃える10人の男子部が、日本から西ドイツ(当時)へ、自ら志願して雄飛した〉西ドイツに渡ることになったメンバーは、皆、ただ一途に、広宣流布のために生き抜こうと、決意を固めていた。家も、財産も、社会的な地位や名誉も、眼中になかった。楽をしようとか、他人よりいい思いをしたいなどといった考えも、微塵もなかった。仏法の厳然たる法理に照らして、人間としていかに生きるべきかという思索のうえから、人類の幸福と平和を実現する広宣流布こそ、最高最極の人間道であると結論し、広布に人生を捧げる決意を固めていたのである。それは、彼らだけでなく、多くの創価の青年たちの思いでもあった。

広布こそ最高最極の人間道

自分のみの、小さな目先の幸せを追い求め、汲々としている人間には、その精神の崇高さは、決してわかるまい。(中略)生命は尊厳無比である。これに勝財宝はない。そうであるからこそ、この一生をいかに生き、その尊い生命を、なんのために使うのかが、最重要のテーマとなる。大聖人は、仏法のため、すなわち、広宣流布のために、命を命を使っていきなさいと言われているのである。なぜならば、そこに、一生成仏という絶対的幸福境涯を確立しゆく、直道があるからである。 (「新航路」の章、233~235ページ)

御文

南無妙法蓮華経は師子吼ししくごとし・いかなるやまいさはりをなすべきや(御書1124ページ、 経王殿御返事きょうおうどのごへんじ
通解
南無妙法蓮華経は師子吼ししくのようなものである。どのようなやまいが、さわりをなすことができようか。
小説の場面から 〈65年11月、12月、全国各地を巡り同志を激励する山本伸一。奈良の友との記念撮影では、病を患う壮年部の友に真心こめて指導した〉「南無妙法蓮華経は師子吼です。その声を聞けば、どんなに獰猛な動物も逃げ出すように、いかなる病も、幸福への、また、広宣流布への障害にはなりません。現代人は、みんな”半健康”であるといわれるぐらい、なんらかの病気をかかえているし、年齢とともに、体も弱っていきます。では、病気だから不幸なのか。決して、そうではない。病に負けて、希望を失っていますから不幸なんです。広布の使命を忘れてしまうから不幸なんです。(中略)生命の根源においては、健康と病気は、本来一体であり、”健病不二”なんです。

やまいだから不幸なのではない

ある時は、健康な状態として現れることもわれば、ある時は病気の状態となって現れることもある。この両者は、互いに関連し合っているがゆえに、信心に励み、病気と闘うことによって、心身ともに、真実の健康を確立していくことができるんです。」(中略)「病気をかかえていても、『あそこまで、元気に生きられるんだ』『あれほど、長生きができるんだ』『あんなに幸福になれるんだ』と、同じ病をもった方が、感嘆するような、人生を歩んでいってください。そうすれば、仏法の力の見事な証明になります」 (「桂冠」の章、304~306ページ)

メキシコ広布史に学ぶ

ここにフォーカス「幸風」の章に、1965年(昭和40年)8月、山本伸一がメキシコを初訪問した場面が描かれています。伸一にとって、メキシコ訪問は特別な意味がありました。戸田先生が逝去の直前、「伸一、昨日は、メキシコへ行った夢を見たよ」と語っていたからです。伸一の訪問時、メキシコ支部は、わずか26世帯でした。伸一は、3年後の68年(同43年)にメキシコ五輪が開催されることから、その時を目指して、「500人の同志が集い合う」ことを提案。それは、そのままメキシコの友の”誓い”となりました。同章に、こう記されています。。「それぞれが自分だけになっても、この山本会長との誓いを、必ず果たそうと決意していた。皆が一人立ったのである」仏法対話や勤行指導のために、1000キロ以上も離れた地域へ、1週間がかりで出掛けることもありました。しかし、その結果、3年後、メキシコは700世帯へと発展。約27倍もの拡大を成し遂げ、伸一との誓いを果たしたのです。環境や状況がどうあれ、広布は”新たな歴史の扉を開いてみせる”と決めた一人から始まるーーメキシコ広布の軌跡は、不変の方程式を教えています。

第10巻解説

紙面講座池田主任副会長


先日の聖教新聞(7月20付)に、池田先生が撮影された「創価学会 世界聖教会館」の写真が大きく掲載されました。今秋、同会館は完成します。いよいよ”聖教新時代”の到来です。第10巻「言論城」の章に、「広宣流布とは、言論戦である。仏法の真実と学会の正義を訴え、論証し、同志を勇気づける言論なくしては、広布の前進はない」(48ページ)とあります。その言論の武器こそ、聖教新聞です。同章には、1965年(昭和40年)7月15日付から始まった聖教の日刊化の経緯が記されています。当時、聖教新聞は週3回刊の8ページ建てでした。日刊化は、65年10月からスタートの予定でしたが、伸一は「もう少し、早くできないだろうか」(52ページ)と提案します。「週三回の発行では、もう、学会の前進のスピードに、ついて行けない時代になった。」(同ページ)からです。「幸風」の章では、メキシコ支部長が、日本から送られてくる聖教新聞を隅から隅まで熟読したことがつづられています。「新航路」の章では、聖教新聞を通して、世界広布に尽くしたいと考え、西ドイツ(当時)に渡った青年のエピソードが紹介されています。まさに、聖教新聞は世界広布を推進する活力源ともなっていたのです。日刊化へ向け、輸送体制の確立などm、問題は山積していました。しかし、伸一のもと、聖教に携わる誰もが、「たとえ自分一人になっても、必ず、日刊化を軌道に乗せるぞ、」(66ページ)と決意し、日刊化が実現しました。伸一は編集首脳との懇談で、”聖教らしさ”について、①どこまで、広宣流布へのための機関紙②真実の仏法を、よく理解できる新聞③読者に勇気と希望を与える”励ましの便り”ーーと述べています。機会あるごとに、彼は聖教の進むべき道を示してきました。聖教の日刊化と相前後して、世界各地では、各国語の機関紙誌が誕生しています。その機関紙誌を通して、それぞれの国で、学会への誤った認識が改まっていったのです。「聖教は、思想と哲学の電源地でだり、世界最強の言論城にしていかなければならない」(58ページ)との期待を胸に、さらなる聖教の発展・拡大に努めていきたいと思います。
励ましの智慧
65年8月の夏期講習で、伸一は学会精神を同志の胸に深く打ち込むため、全力を注ごうと決意します。「『本門の時代』に入り、広宣流布の流れは、社会のあらゆる分野で、仏法の人間主義ともいうべき思想を実現していく、多様多義にわたる『展開』の時を迎えた」(90ページ)からです。学会せいしんについて、「言論城」の章に、「浅きを去って深きに就く、一人立つ『丈夫の心』「殉難を恐れぬ、『死身弘法』の決意」(同91ページ)と、伸一は間断なく行動を続けます。「どうすれば、みんなが、喜び勇んで」(38ページ)立ち上がることができるのかーー。伸一の、その一念から生まれる励ましの智慧は、さまざまな形となって現れました。例えば、「地区幹部の励ましにこそ、『本門の時代』の新しき飛躍の鍵がある(35ページ)と考え、各地で行われた地区部長会で、可能な限り、参加者全員と握手しています。ところが、彼の手は、次第に赤く腫れ、万年筆を握ることすらできなくなってしまいます。そこで、握手に代わる激励として、記念撮影を開催していきました。撮影を通して、「数十万の同志と魂の絆」(191ページ)が結ばれていったのです。本来なら、一人一人の同志と握手を交わし、励ましたいというのが、伸一の思いだったに違いありません。しかし、だからこそ、彼は記念撮影という短時間の出逢いの場であっても、「同志の心の暖炉に、永遠なる『誓いの火』を、『勇気の火』を、断じて、ともさねばならない」(同ページ)と魂の触発に全力を傾けました。それはまさに、「『一瞬』に『永遠』を凝縮しての行動」(15ページ)でした。今、私たちは「SOKAチャンネルVOD」で、池田先生のスピーチ映像を視聴することができます。先生のスピーチは、「『一瞬』に『永遠』を凝集」したはげましにほかなりません。こうした数々の師匠の激励を、自身の人間革命の力としていくのか。それとも、過去の指導と捉えるだけで終わるのか。問われているのは、師匠に対する私たちの姿勢です。
人材輩出の力
「桂冠」の章に、66年(同41年)3月5日の壮年部結成式の場面が描かれています。「本門の時代」に入り、「信心即生活の実証を、一人ひとりが現実に示して行く時」(384ページ)を迎え、壮年があらゆる分野で力を発揮していくことが、社会に大きく信頼を広げていくために大切であるとして、壮年部が結成されました。伸一は結成式で、「永続的な発展のためには、分別のある”保守”の力と、若々しい、勢いのある”革新”の力がかみ合っていくこどが肝要」(同ページ)と強調し、「広布推進の強力なエンジンとしての青年の力とともに、豊かな経験や判断力など、総合的な円熟した壮年の力が求められている」(385ページ)と訴えます。さらに、「壮年部が立派であるならば、婦人部も、男女青年部も、立派に成長します。壮年のよき励ましは、各部から、大人材を輩出させていく力となります」(同ページ)と、万感の期待を寄せています。「壮年部結成記念日」は3月5日ですが、「壮年部の日」は池田先生の入信記念日である8月24日に定められています。同章で言及されている通り、牧口先生が、信心を始められたのは57歳。戸田先生が出獄し、広布に一人立たれたのは45歳。いずれも、壮年時代です。つまり、8.24「壮年部の日」には、創価の城を支えゆく、黄金柱(389ページ)として、三大会長の戦いを模範としていくとの意義が込められているのではないでしょうか。伸一は、「壮年部が大きく成長し、堅固な広宣流布の構えができるならば、わが創価学会は永久に盤石です」(390ページ)と語り、結成式の指導を結んでいます。「学会の永遠性の確立」という意味においても、壮年部の使命は限りなく深く、大きいのです。

名言集

雅量のあるリーダー

後輩に対しても、自分以上の力をつけさせていける、雅量のあるリーダーでなければならない。それには、まず率先垂範だ。その姿、行動が、真実の触発をもたらしていくことは間違いない。「言論城」の章、54ページ)

求道心を強く

求道心こそ、信心の養分を吸い上げ、自身の成長をもたらす根である。その根が強ければ、必ずや、幸福の花々を咲かせゆく。(「言論城」の章、94ページ)

広宣流布への一念

“広宣流布”に一念を定めた人は強い。人生の勝利も、成功も、知恵も、活力も、その一念のなかに収まっているからだ。(「幸風」の章、156ページ)

決意が勝利を生む

信心の継承こそが、広宣流布を永遠ならしめる道であり、一家、一族の永遠の繁栄の根本です。そして、その要諦が「一家和楽の信心」です。(「新航路」の章、254ペー ジ)

人間主義の原点

“一人の友”を、どこまでも大切にし、同苦し、守らんとすることこそ、御本仏・日蓮大聖人の御精神であり、創価の心である。また、そこに、人間主義の原点がある。(「桂冠」の章、324ページ)