【功徳と罰】

実践のための教学入門 フクロウ博士の個人教授

 

友人と仏法対話をしているのですが、こう反論されたのです。「宗教というのは心の問題に過ぎない。だから、信仰によって功徳をもらったとか、信仰を批判したから罰を受けたというのはおかしい。現世利益を説く宗教はうさん臭い」と。

私から言わせれば、現実生活の利害や損得を軽視して、心の救いなどという観念的な話に逃げているような宗教こそ、うさん臭いよ。そんなのは、自分たちの教えには現実に人々を救う力がないと言っているようなものだ。そうした宗教の方こそ、何かほかによからぬ企みがあるようだからね。

  でも、功徳や罰と聞くと、一般的には、自分とかけ離れた神や仏が罰や利益を与えるという印象があるようです。

  そうした考え方を正すためにも、今回しっかりと学んでいこう。まず、簡単に言うと、功徳とは現実生活におけるプラス面で、罰はその反対のマイナス面といっていいだろう。現実生活におけるプラス面といってもさまざまな側面がある。「利益になること」「心地よいこと」「人々のためになること」などが考えられる。 牧口先生は、幸福とは、「利(利益)・美(好み)・善(正義)」の価値を創造することにあると考えられているが、功徳を現代的な言葉で表現すると「価値」と言うことができるだろう。その逆の「損・醜・悪」という反価値は罰ということになる。

 すると、「価値を創造する」という「創価学会」の名称の由来も、信仰の功徳を現代にどうとらえていくかということに通じていくわけですね。功徳を追求する”というのは、本当は“価値的に人生を生きていくということと言えますね。

 働くのも、食べるのも、病気を治そうとするのも、すべて何らかの「価値」を得よう、創ろうとしているんだ。生命の本然的な働きなんだ。

———————————————————- ポイントだよ①仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(383㌻) ———————————————————-

 功徳を求めることを否定するということは、生きていくことを否定するようなものなんですね。

 

本来、仏法における「功徳」という一言葉は「善い行いをしたことによって、その人に備わる徳性」や「善を積んで得られるもの」という意味をもっていた。つまり、善の「行動」そのものに「功徳」は備わっているということだ。決して、自分の外から与えられるのではなく、自身の生命の中からわきあがってくるのが「功徳」なんだよ。「一生成仏抄」には、「実践によって得られる功徳はすべて、自分自身の一念の中に納まっている、と信心をとらえるべきである」(ポイントだよ①参照)と教えられている。

 他から功徳を与えてもらおうという考え方では、神頼みのようなものになってしまい、生活上の努力もかえりみられなくなってきますね。それでは、“自分の人生を決めるのは自分自身”という主体的な生き方が損なわれることになりかねません。

 

功徳は、自分の行動に備わるものであり、自らの生命の中から出てくるものととらえれば、年に1度、初詣で拝むだけで一家の安全や商売繁盛を願う感覚が、どれだけ虫のいい、いい加減な宗教観であるかが分かるだろう。

 そうすると、罰というのも、悪しき「行動」に備わるもので、他から与えられたりするものではなく、自身の生命の中から出てくるということになるわけですか。

 

そうだよ。戸田先生がこう言われている。「よく罰があたるというけれど、あれはやめてもらいたい。罰なんかあたるものではない。汚物は出るもので、汚物にあたるものではない。体にある、自分にあるものが出てくるのです。罰だって同じで、出るもので、あたるものではない」と。

 分かりやすい譬えですね(笑い)。人間は、悪いことが自分自身の中にあるとはなかなか思えないものですよね。だから、罰を、他者が自分を罰するものととらえてしまい、自分の誤った行動から目をそらしてしまうことが多いのですね。

「法」に背いて罰を受けるといっても、神みたいな存在が悪事を裁くということではないんだよ。例えば、横断歩道を青信号で渡ると安全に進むことができるが、赤信号で渡ると交通事故に遭ってしまう。交通ルールという「法」に背いた自らの行動によって、事故という罰が出てしまったことになる。同じように、人間や環境や宇宙を貫く「妙法」という生命の根本の法則がある。この「妙法」のルールから外れた生き方をすれば、生活の上で罰を受けることになるんだ。

 

功徳が、自らの行動に備わる「利益」や「快適さ」や「人々のためになること」といった価値にあるということはよく分かりました。けれど、こうした価値は、人や環境や時の流れによって変化するものですよね。病弱な人にとっては人並みの健康は何よりの功徳ですが、健常者にとってはなかなか功徳とは実感することができません。功徳とは、しょせん相対的なものなのでしょうか。

 

いいところに目をつけたね。日蓮大聖人は「功徳とは、六根清浄によって起こるものだ。大聖人の教え通りに題目を唱える者たちは六根清浄になることができる。功徳というのは成仏のことなのだ」(ポイントだよ②参照)と言われている。

———————————————————- ポイントだよ②功徳とは六根清浄の果報なり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり、されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳有るなり、功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり(762㌻) ———————————————————-

「六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)」とは、視覚、聴覚などの感覚や意識のことだが、簡単に言えば「生命力」ともいえよう。「六根」が「清浄」になるということは、「生命力」が「強化」されるということだ。

 

一般的には「六根清浄」と聞くと、健康な体になったり、精神が癒されたりするようなことをイメージしますが、そういうことではないのですね。

   

人間の幸福とは、環境(外界)と自分の「生命力」との関係で決まる。悪い環境に負ければ不幸であり、たとえ悪い環境でも自分の生命力が打ち勝てば幸福と感じることができる。つまり、本当の「功徳」とは、どんな悪い環境も乗り越えていける「生命力」を出せる仏界の生命を現していくことなんだ。「人間革命」といっていいし、「宿命転換」ともいえる。仏界の生命とは、どんな苦難や環境であっても、満々たる生命力で乗り越えていくことができる自由自在の境涯だ。だから、仏界の生命を現していけば、生活上のさまざまなプラス面やマイナス面を含めて、すべて価値的なものへと転換していくことができる。これこそ絶対的な功徳だよ。

 なるほど。「成仏すること」や「人間革命することし以上の功徳はないんですね。

 

だから、大聖人が言われているように、「大聖人の教え通りに題目を唱える」、つまり広宣流布の大願に生きる人生を歩むことが、絶対的な功徳を積むことになるんだ。

 

私たちが奇跡的に思うようなすごい功徳でも、境涯革命の功徳にはとても及ばないのですね。とすると、私たちは成仏以外の功徳を追い求めてはいけないのですか。

 

それは違うよ。さっきも言ったように、人間として生きている以上、”健康で暮らしたい”、豊かな生活を送りたい””正しい社会をつくっていきたい”といった価値を目指すことは間違っていないし、そうした功徳を実感することで妙法の力を確信することができる。しかし、相対的な功徳も、成仏という絶対的な功徳を目指すなかで、生かしていくことができるんだ。人生は長い。晴天の日だけではなく、烈風の日もある。しかし何が起ころうと、信心があれば、最後は全部、功徳に変わるんだよ。

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